明治新川柳中興の祖・阪井久良伎翁とは下記(※Wikipedia)のような方。5月15日に吟行を兼ねて東京・上野公園まで。幕末この地に散った彰義隊を偲ぶとともに、彰義隊への「川柳供養」を続けた柳人阪井久良伎の志について考えてみたい。
‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥
阪井 久良伎(さかい くらき、明治2年1月24日(1869年3月6日) – 昭和20年(1945年)4月3日)は川柳作家である。別名:阪井 久良岐(さかい くらき)、徒然坊、坂井 弁(さかい わかち)、酒井 弁(さかい わかち)、本名:阪井 弁(さかい わかち)[1][2]。井上剣花坊とともに川柳革新運動を行った。
神奈川県久良岐郡野毛(現在の横浜市中区野毛町)に生まれる。本名、辨(わかち)、父は税関役人であった。共立英語学校、高等師範国文科在籍中より、石城、徒然坊の筆名で漢詩・和歌の投稿を行った。明治29年(1896年)報知新聞に入社、翌年新聞『日本』に入社する。『旧派歌人十余家の自賛歌十首』を連載し、この記事は正岡子規の反発を受け、子規の『歌よみに与ふる書』が執筆される機縁となった。明治36年(1903年)『日本』の川柳壇の選者を務め、『川柳梗概』を執筆し川柳の革新運動を始める。同年、井上剣花坊が『日本』に入社し、新川柳を担当したため、『電報新聞』(後に毎日新聞に買収される)で川柳壇を担当した。明治37年(1904年)、久良岐社を創立し、川柳誌『五月鯉』を創刊した。『五月鯉』は明治40年に刊行にゆきづまるが、その後、川柳誌『矢車』の序文に寄稿し、明治42年に『獅子頭』、大正3年に『川柳文学』を創刊した。
江戸期の川柳・狂句が滑稽・風刺に偏ったことを改め、風俗詩としての川柳を主張した。
代表句としては「一寸粋なミッスの通る薔薇垣根」「トタン葺き春雨を聞く屋根でなし」などがある。
‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥
上(写真)は彰義隊の墓。この地で戦死(上野戦争)、野ざらしにされた遺体はここに集められ、荼毘に付された。阪井久良伎は〈その川柳普及運動の中で、<江戸>の最期に江戸の意地を見せた《彰義隊》戦士に思いをはせ、江戸の文芸たる川柳で、上野に散った彰義隊諸士を偲ぶため「川柳供養」を昭和2年の60回忌から久良岐社にて続けました〉。〈その遺志を継いだ台東川柳人連盟が99回忌、100回忌(昭和42年)に彰義隊墓前句会を催しました〉。
今年は150回忌の節目ということらしい。〈阪井久良伎翁の師系である川柳公論社は、台東川柳人連盟とはかり、上記の行事を行います〉。〈さらに、明治元年以来、彰義隊戦士の供養を続けてきた日蓮宗東京都北部宗務所の皆さまとともに、社会に向けた彰義隊の文化発信を行います〉。(〈〉内はネット上の《彰義隊150》から引用)
日 時 : 2017年5月15日 11時開式
場 所 : 上野公園内 彰義隊墓所
(当日、西郷さんの銅像の奥にテントが張られています)
11時より法要開式
*有縁寺院梵鐘伝供養
(東京の主な寺院の梵鐘が鳴り供養とともに平和を祈ります)
*舞楽奉納「陵王」
(日蓮宗の雅楽法要が見られます)
*徳川慶喜公直筆「撰法華経」伝供養
13時より句会開会
(課題はチラシ参照、投句〆切は12時30分)
柳話「彰義隊と川柳」 尾藤一泉氏
追悼句披講 (彰義隊戦士に川柳を奉納します)
(※以下略。句会参加希望の方はネットで《彰義隊150》を検索、参照のこと)
Loading...















































