「チャンネル」は周波数。霊とチャンネルが合ったり、チャンネルを合わせたりできる人もいるようだ。15日の東京・上野公園吟行を控えて、いま考えていること。
上野公園を歩くのは初めてではない。以前川柳大会出席のおり、山手線・鶯谷駅近くに泊まったことがある。日暮れ時と朝、上野公園や周辺をかなり歩いた。上野戦争がこの地であったことにはそのとき気付かなかった。たまたま人通りもほとんどなく、どこをどう歩いたのか記憶もさだかではない。
日暮れ時に歩いたときはとくに、ふつうではない何かを感じて、なんとなく通れない道を避けたことを覚えている。霊が見える見えない、また感じる感じないは視力や聴力と同じような身体機能の差の一種らしい。個人差があると思うが、なんとなくずっと気持ちが悪かった。彰義隊死者を集めて火葬にした場所に建てられた「戦死の墓」は、上野戦争で戦死した彰義隊の墓である。そういうことを知っていたわけではないのに、ずっとなんとなく気になっていたのは、やはりここでもそのような感覚がいささかあったから。下記は、上野公園吟行にあたり調べた資料の一部。
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慶応4年(1868)5月15日、押し寄せる薩長軍に抵抗して上野の山に立てこもった幕府側の彰義隊は、江戸を守るの意気に燃えたものの、一日で敗れ、ほとんどが戦死。その数は二百六十名にものぼったという。遺体は賊軍として扱われ、見せしめのためと捨ておかれたが、円通寺(荒川区南千住1-59)の僧により手厚く葬られた。上野戦争で砦となった黒門は、この関係で現在円通寺に保存されている。
江戸の人々は上野の戦いを固唾をのんで見守ったが、多くは彰義隊の味方だった。徳川三百年の歴史を通して幕府への恩義を感じ、彰義隊や将軍徳川慶喜や輪王寺宮などをそれぞれ贔屓にして、それらに襲いかかる薩長軍を敵とみなすのは当然だった。薩長軍は上野の山を焼きつくし、その被害は山下、根岸にも及んだという。辛うじて逃げ落ちた彰義隊士を、寺の縁の下に匿った(根岸の永称寺)とか、周辺には逸話は多いはずである。彰義隊への手助けは江戸っ子の本領だったかもしれなかった。
明治維新後も、上野の山に怨霊が出る噂がまことしやかに伝えられ、まただれもがそう信じこんでもいた。ちなみに、上野戦争を錦絵に描くことすら禁止され、明治七年になるまで出版許可は与えられなかった。
上野戦争は、当時として出版には絶好のテーマだった。利に聡い版元は上野の攻防戦とわかる題材を往時に求め、例えば織田信長の本願寺光左を攻撃した「石山本願寺合戦」などの名目で、錦絵を刷りあげた。絵師の月岡芳年などは上野戦争を実際に目撃して描いたひとりで、「魁題百撰相」などは有名だった。
明治七年、彰義隊の怨霊退散祈祷が行われ、政府も彰義隊のことを不問に処したことで、それ以降憑きものがおちたように上野から幽霊が消えたといわれる。明治七年に彰義隊の墓の建立が正式に許可されることになるが、建立者の一人で、また墓所を今日まで守りぬいたのは、彰義隊の生き残り隊士小川興郷一族だった。最初唐銅の墓を造るが維持できず、その後現在の墓が明治十四年五月に建てられた。墓石は山岡鉄舟の雄渾な筆で「戦死の墓」とだけあり、建立当時の明治政府をはばかる意が伝えられてもいる。
この七メートル余の墓の直前に六十センチほどの小さな墓標があるのは、墓を建てた時、埋葬された中から出てきたもので、「発願回向主沙門松国」とあり、それは建立者寒松院と護国院の匿名とも受けとれた。(以上はネットから関係部分を抄出、まとめたもの)