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 五月の吟行先は東京・上野公園。彰義隊法要とあとの川柳句会に出席予定(「彰義隊150」で検索すると詳細が分かります)。下記はご参考まで。
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上野戦争
 慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出、江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎。新政府軍は東征軍を江戸へ向けて進軍させた。江戸城では主戦派と恭順派とが対立。慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の西郷隆盛と旧幕府の勝海舟が会談、徳川慶喜の水戸謹慎と江戸城の無血開城を決定。
 抗戦派の幕臣や一橋家家臣らは彰義隊を結成。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認、江戸市内の警護を命ずるなど懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かうと彰義隊では強硬派が台頭、徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結。
 新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮。大村は武力殲滅を主張、上野を封鎖するため各所に兵を配備、さらに彰義隊の退路を限定する為に交通を分断。根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。
 5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突。戦闘は雨天の中行われた。新政府軍は加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲などによる砲撃。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅。

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