昨日の続き。久しぶりに環境破壊反対の市民運動家であった故宇治田一也氏のことを考えたことで、先ほど手元の『宇治田一也遺稿集』を開いてみた。不思議なことに、そういうときにはあまり探さなくても身近なところに本が顔を出している。相変わらず、読み返してみてもよく分からないところも多い。市井の思想家(近代文明評論家)としての故人を知っていただくきっかけとなればよいという気持ちから、遺稿集の一文を記させていただく(抜粋)。
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田のあぜに座って考える(序に代えて)
今、夜明け前、私は山もとの水田のあぜに座っている。あわく白く流れる霧を通して、次第に朝のあかりが田の面にひろがる。ようやく雀が啼き始めて、やがて群れながら空を舞う。
ここは私の次男夫婦が作る一反の山田。朝日にきらめきながら、もう見事な黄金色の穂が、たわわに波打っている。まことに一瞬、息を飲むばかり。まさに私の目には「天・地・人」の大景観である。…
…私が水田の泥になじみ始めたのは、今から三十年ばかり前、今の息子たちと同じ二十代の半ばであった。その頃、まだ大学の哲学科に籍をおいて、この世のアルバイトの色々を経験しながら、もう大学には出ないで、人生の意味や、世界の危機や、この世の根底のしくみなどについて、ひたすら考え続けていた。米ソの水爆の実験など、危機感は今よりも切迫して、まともな就職も卒業も考えない決意にあった。そして、次第に平和な生き方としての「農」にひかれて行ったのである。…
…「食」と「水」の問題も、根底には、「くらし」と「文明」の問題がある。いま私たちは、ほとんど都会または近郊に住んで、電化機器やマイカーにとりまかれて、昔よりも格段に進歩したつもりの「くらし」の中にいる。こういう「くらし」の傾向を「近代文明」または「工業文明」と私は言うのだが、今、この前途には、人間の歴史が始って以来の、大きな断崖が迫っている。静かに見れば見るほど絶望的な深淵につながってゆく。…
…マイカーやテレビがなくても、天恵の下に、天真の歓喜のくらしが可能である。「近代」と「進歩」という心中の幽霊を超えねばならない。近代の悌髪、その上での謙虚さがキーとなる。…
…そのくらしには仕事の喜びはなくて、生産様式とともに欲望はかぎりなく、その文明には平和な自足がない。その工業文明が一つの沼のように世界にひろがって、一のアジア、アフリカの本来のくらしを混乱させ、全世界を際限のない大乱にまき込んでいる。それぞれの土地の、地についたくらしと文明を、本当に見直すことこそ、今、最も望まれる方向である。(注。この文は事故当日、所持していた鞄の中にはいっていたものです。) (宇治田一也)
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