歳をとるにつれどんどん身の回りが寂しくなってくることは想像がつく。私には息子が一人いるが、(仕事もあり)まず看取ってもらうということは期待しないし、また期待できない。いずれはどこかの老人福祉施設に入所するか、自宅で訪問介護のヘルパーさんの世話になりながら一生を終えることになるだろう。この先どこにいても(仕事や子育てのあとの時間をたっぷり川柳を詠みながら生きられたことに)幸福を感じられるように、いまを悔いなく充実させておこうと考えている。(写真:おしゃべりする介護ロボット)
下手すれば認々介護する余生 正春
いつか私を看取ってくれる介護ロボ あきこ
上の2句は、時事川柳として瓦版3月句会で入選したもの。(瓦版5月号の)「前月号鑑賞」に嶋澤喜八郎氏が取り上げてくださった。下記は2句に対する氏のミニ評。
長寿・高齢大国日本の将来像か。認知症同士で介護するとは余りに悲しく、またロボットに介護を頼むとは寒すぎませんか。
自身の終末期について完全に予測できる人はいないだろう。親戚・知人を見ていると、大抵自宅に訪問介護のヘルパーさんに来てもらっている。
周囲を眺めて、さて自身の終末期をどうするかといえば、やはり訪問介護のヘルパーさんに頼ることになるだろう。割り切れば介護ロボットが寒いとかいうことはない。介護ロボットにできるところまではしてもらってよいのである。団塊世代がこれから一斉に高齢化していく。誰も自分の老いから逃れることはできない。覚悟して、その日まで凛と生きるしかない。下記はご参考まで。
介護ロボットには、脳から送られる電気信号を感知して筋肉に動きを伝え歩行を支援するもの、ベッドと車いすが一体化し人手をかけなくても移乗ができるもの、高感度センサーでおむつの中の変化をとらえ液体や固形物を即座に処理してくれるものなどがあります(日本経済新聞2014/2/25)。
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