瀞の夜は静かだった。懸樋(かけひ)の水と北山川のせせらぎと、こおろぎの声のほかは何の物音もしない。宿の主人とテーブルをはさんで話しこんでいるのだが、話の切れめにはその音に耳が吸いよせられる。
「瀞というのは〝どろ〟と呼ぶんですかね。それとも〝とろ〟で?」
「土地では〝どろ〟と言ってますよ。わたしの家は、はっきりしているだけで七代続い
てるんですが、父も〝どろ〟と言ってました。古い書類にも泥という漢字を書いたのが
ありますね。」
「瀞という字には、漢学のにおいがありますよね。風景はともかく、生活の面では不便
だったでしょう。」
「プロペラ船ができるまで、というと大正十年ですが、それまでは取り残された土地で
してね、舟で新宮から二日かかりました。物売りや猿廻しなどの芸人が来たりする程度
で………」
主人は、父が書き残したという覚え書きを見せてくれる。自在鉤をつるした囲炉裏、猿の手首を入口に打ちつけた牛部屋、舟を綱で引いている図など描いてある。その克明な図や文字の質実な筆運びを見ると、この主人の親は、時代の移りを敏く感じていたと思われる。綱をからだに巻きつけて、舟を川上へ引っぱり上げている姿など、今の観光客には想像もできないだろう。労苦はこの地に住む人ばかりではない。わたしにはここを訪れた人の覚悟が思われた。暫時(ざんじ)して、これから舟を出してくれないかと主人に頼んだ。しかし、今夜は二十日過ぎの月で、舟を出しても何も見えませんよという返事である。それで、翌朝暗い中に舟を出すことにした。せせらぎの音を聞きながら、わたしはねむった。
目が覚めたのは三時過ぎだった。窓をあけてみたが、対岸の山肌はまだ黝々とあかときの闇のなかにある。床に入ったが寝つけない。再びめざめた時には主人はもう起きていて、玄関のあたりで物音がしていた。
主人に案内されて、川の洲に下りる。昨夜一雨あったらしく、小石が濡れている。ここは三重・奈良・和歌山の三県が接する地点だが、わたしの立っているのは奈良県十津川村の田戸という。山腹の家の燈火があかあかとしていて、霧の流れがみとめられる。徐々にあたりが白んでくる。
舟は伝馬船(てんません)で底が浅い。ゆかたの裾をからげて舟に乗る。動き出すとさすがに水の上、川風がつめたい。大きな山塊がシルエットになって、舳(みよし)の前に浮かんでいる。静かな瀞峡の夜明けである。
遠くで鳥の声がした。主人は、あれは鵯(ひよ)だと言う。月が中天にかかっている。鳥の姿はない。だが、まぎれもなく今日一番の朝鳥だった。まもなく鳥の合唱が始まった。あの谷、この峰、たがいに鳴きかわす。山肌に色が出てくる。闇の中のものが色を帯びてゆくさまは言いようがない。煙霞陽光荘厳を生ず、わたしはそんな言葉をつぶやいていた。
獅子岩のあたりから舟を返す。流れのままに舟を流す。田戸の急カーブを過ぎると、両岸はいよいよ高く、水は淀んでいる。「あゝ、あれは………」わたしは帯のようにつづく空の彼方を指さした。五羽、鏃(やじり)の形になって飛んでくる。「あれは鴛鴦(おしどり)。もうやってくる季節になったんですね。」主人も艫(とも)にすわって空を眺める。
たばこに火をつけ、時計を見ると七時を過ぎている。わたしは急に空腹を感じた。瀞はもうすっかりその姿を現わしている。たっぷり一時間半の観光だった。
船から降りると、足もとの小石は乾いていた。中に黒いのが目につく。拾ってみると、まだその石だけが水分を含んでいる。那智の黒石だった。(『殘櫻記(ざんおうき)』の著者はあきこの亡父。大正15年、東京都に生まれる。昭和59年3月発行)
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