私は、若い頃からずっと高価な宝石にも着飾ることにも関心がなかった。私の言う“快楽”とは、したがってそういう種類のものではない。言うなら、「たましいの快楽」。その快楽は、身体の感覚や一時的な刺激とは異なる、心中のより静かで深い層に生じるよろこびなのである。
外から与えられるのではなく、むしろ内側からふつふつと湧き上がるもの。人はしばしば幸福を「手に入れるもの」と考えるが、たましいの快楽はその逆で、余計なものがそぎ落とされたときに初めて姿を現すものなのかもしれない。川柳の推敲の「枝葉を切って、一本の棒のような中身を取りだす」ことに似ている。快楽を覚えるのは誰に見せるわけでもない思索の時間、あるいは自分の存在が世界と調和していると感じる刹那など。そこでの感覚がたましいの快楽に近い。
この快楽は強烈な刺激や感情とは無縁で、むしろ淡く控えめ。たとえば、長い旅の途中、ふと立ち止まり風の音に耳を澄ませたときに訪れる安堵。あるいは、誰にも語らない小さな決意を胸に抱いたときのちょっとした昂揚。これらは外から見れば取るに足らない出来事だが、内側には深い満足感が広がっている。
また、この快楽は自己理解と密接に結びついている。自分が何を求めどこへ向かおうとしているのかを見つめるとき、人はしばしば不安におちいる。しかしその不安を避けずに受け止めたとき、そこに凛とした透明感が生まれる。自分の輪郭が少しだけはっきりし、外界との距離感が意識下で調整される。そのときに感じる軽さ自由さこそが、たましいの快楽と言っていい。
たましいの快楽は「孤独」とも深く関わる。孤独は寂しさと同義ではなく、自分の中心に戻るために空気の層をまとうこと。誰にも干渉されず誰の期待に応えなくてもよい時間と空間で、人はようやく自分の声を聴くことができる。孤独を恐れずむしろ味わうことができる人ほど、この快楽の意味が分かるだろう。
結局のところ、たましいの快楽とは「自分が自分であることのよろこび」である。何かを成し遂げたからではなく誰かに認められたからでもなく、ただ生きているその時間や空間が満ちていると感じられる状態。たましいの快楽は、外界の喧騒を離れ内なる世界にそっと耳を澄ませた者だけが味わえる、最も豊かなよろこびなのかもしれない。
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同感! しかし私にはとても無理。 板坂壽一
板坂壽一さま
>しかし私にはとても無理。
いやいや。
たぶんその快楽を知るお一人です、あなたも。