2011年(平成23年)3月11日(金)。あの日を我われ日本人は忘れない。忘れてはならない。このブログのスタートを東日本大震災の1年後に合わせたのも、その思いがあってのこと。6日から川柳行脚に出かけるので、少し早いが記しておく。下記は故石部明氏がバックストローク第34号に記されたもの。この一文を記された翌年の10月27日にご逝去。一人の川柳家として、震災への思いが記されている。
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濁流をひしめきあいながら家が流され、なすすべもなく車が沈んでゆく。津波に奪われた死者、不明者の数は膨大でまだ定かではないという。そして残された者の人生まで、ずたずたにしてしまった自然の猛威に私たちは、ただ茫然と映像の前で立ちつくすしかなかった。さらに、それに追い撃ちをかける原発事故の、放射能という見えない恐怖にさらされる被災地の人々。
いてもたってもいられない焦燥感に苛まれながら、文芸に携わる私たちに一体何が出来るというのだろうか。早々と「東日本大震災川柳募集」を打ち出した某結社誌の広告を目で追いながら、16年前の阪神淡路大震災を思い出していた。
あのときも、「川柳大学」の編集者を中心に震災川柳が編まれ、何度も出句を求められたが、あまりにも素早い行動に、自分でも理由のわからない抵抗感があって私は出せなかった。
事象に素早く反応し、リアルタイムで言語化することも、川柳の表現領域に幾つもの例があり、「私は出せなかった」というだけのことである。
震災後すぐに、資材と作業員十数名とともに、ボランティアとして神戸に入った私は、映像をはるかに超える惨状を目の当たりにし、世界観が変わるほどの衝撃に打ちのめされ、自分の無力を思い知らされた。もし川柳にするにしても、この風景が私の中で発酵し、再構築できるまでは書いてはいけないという思いもあった。
今回の、被災地の人々の復興に立ち上がる姿に、傍観は許されない。何かをしなければと思いながら、結局は、行動する力のなさを証明するようで恥ずかしいが、「バックストローク・大震災被災者支援基金」を設立した。勿論、それが大地の砂の一粒に過ぎなかったとしても、皆さまのご協力をいただきながら、被災地とつながっていきたい。
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震災の悲しみも、原発事故の怒りも、たった2年しか経っていないのに、能天気な日本人、忘れっぽい日本人。
「こんなこともありましたね」
去年の夏、大飯原発が再稼動した直後、大量のクラゲが発生し海水取水口を塞いだことがあった。
これは、「クラゲの原発反対デモだ」と拍手喝采をした・・・記憶。
りょーみさすけさま
まったく。目先のことしか考えられないのかと、がっくりします。
私たちが生きている間に原発が無くなることは、たぶんないのでしょうね。(たぶん…)
さて、これから出発。がんばるぞぉ~。ではまたあとで。