88歳の父が“850万円”の定期預金を解約し、外貨建て生命保険を購入していた! 気づいた娘と銀行員の攻防戦「全額の返金はできません」
元小学校教員の父は、母亡きあと、地方の街で10年余りひとり暮らしをつづけていた。携帯電話を持たず、運転免許も返納せず、「俺は元気だ、大丈夫だ」と言い張っては、自分の主張を曲げようとしない。そんな父が大腿骨骨折の重傷を負い、介護保険申請で要支援2と認定された、ところが翌年の更新時に「非該当(自立)」とされ、介護サービスが打ち切られてしまう。おまけに末期腎不全で人工透析を勧められた父は、「入院や施設などイヤだ」と断固拒否。専門医療とつながらず、介護保険も使えないという、まさかの事態に陥った。一方で当人は、相変わらずのひとり暮らしをマイペースに過ごしていた。多少の排泄の失敗はあっても、汚れたパンツを穿き替えて洗濯する。ひとりで買い物に行き、簡単な食事を作って食べる。共同浴場に通い、顔なじみと一緒に温泉につかる。父の日常は一見自立しており、言い方を変えれば「自分らしい生活」を送っていた。好きなものを食べ、行きたいところに行き、過剰な薬や面倒な検査とは無縁のマイペース人生、それは週刊誌の記事にでもなりそうな「理想的な超高齢者像」とも言えた。実際、「90歳でもピンピンな高齢者から学ぶ」とか、「人生100年時代を最後まで元気に生きる秘策大公開」とか、最近のマスコミは超高齢期をいかに元気に、自分らしく過ごせるかといったポジティブ志向が目立つ。私もその一端に身を置く立場だが、父の現実を目の当たりにすればそうそうポジティブではいられなかった。自分のことは自分でやり、自分らしさを大切に生きる、それ自体は確かにすばらしく、誰しも理想とするところだろう。一方で、自分のことを自分でやるからには「自立」と判断され、介護保険が使えないまま適切な支援を受けられない可能性がある。自分で考え、選択し、行動することは大切でも、逆に見れば頼りにするのは自分だけ。自分で食事を作らなければご飯は食べられず、自分で洗濯できなければ下着は汚れたままだ。どれほど元気な高齢者だったとしても、加齢による身体機能の衰えや認知力、思考力の低下は避けられない。40代と60代の体力や気力が異なるように、70代の高齢者が思い描く人生の締めくくりと、実際に最終コーナーに差し掛かっている90近くの高齢者の生活は違うのだ。
父が外貨建て保険商品を購入していた
父の場合で言えば尿漏れだけでなく、鍋を火にかけたまま焦がしたり、干した洗濯物を取り込むのを忘れたり、銀行のATM操作がスムーズにできなくなったりと、日常の中にいくつものほころびが生じていた。いわゆる「年のせい」で誰にでも起こり得ることだが、ひとつ間違えば火事を出すなど惨事を招きかねない。歩く速度も格段に遅くなり、信号が赤に変わっても渡り切れなくなった。同じ話を何度も、それも延々とつづけたりする。とりわけ思いがけない出来事は、なじみの銀行員の勧誘で外貨建て保険商品を購入したことだ。私がその一件を知ったのは偶然に近かった。いつものように父に体調確認の電話をし、「ご飯は食べたの?」などとたわいない会話をしていると、突然父が声を潜めた。「おまえには話してなかったけど、実は困ったことがあるんだよ」つづけて「S銀行の人が家に来た」と言うので、てっきり定期預金の勧誘でも受けたのかと考えた。S銀行は実家近くにあり、年金の振り込みから公共料金の引き落としまで任せるメインバンクだ。時折訪ねてくる銀行員はティッシュペーパーだのカレンダーだのを手土産に、毎月1万円の積み立て定期などを勧めてきた。ところが今回は「ドル」だという。「今、定期なんて預けてても利息がつかないだろ。だからほかの貯金で、ドルでやりませんかって言われてそうしたんだけど、何がなにやらさっぱりわからん」「ドル? 外貨預金のこと?」「いやぁ、全然わからない。でも850万円の定期を解約して、S銀行の人が勧めるドルにしたんだ。それで俺が死んだときの保険だかなんだかになるらしい」850万円、その金額に腰が抜けそうになった。おまけにドルとなれば、投資リスクのある金融商品の可能性が高い。詳しい話を聞こうにも、当人が「さっぱりわからん」でははじまらない。私は翌日の仕事をキャンセルし、早朝の新幹線に飛び乗って実家に駆けつけた。息つく間もなく父の手元にある契約書を確認すると、払い込んだ日本円を米ドルに換え、ドル建てで運用する生命保険だとわかった。為替相場の変動により高い利息で返還される可能性はあるが、当然ながら元本割れし大きな損失を被るリスクもある。契約を無効にできるクーリングオフ期限はその日だった。「どうしてこんな危ないものを契約したのよ。これは預金じゃないの。お金が減ってしまう可能性がある商品で、お父さんみたいな投資経験もない年寄りが扱えるものじゃない」落ち着こうとしても声が裏返り、つい詰問調になる。いつもはすぐさま怒鳴り返してくる父もさすがに不安なのか神妙な面持ちで、「俺はワケがわからん。どうすりゃいいんだ。こんなものやめたいよ」と繰り返す。日々のほころびが広がり、一気に崩れた気分だった。外から見れば自立しているような、自分らしい生活を楽しんでいそうな高齢者は、本当のところ決して安泰ではないのだ。
850万円をめぐる攻防
契約書を確認した私は父を伴い、すぐさまS銀行に向かった。窓口で外貨建て保険商品を勧誘した銀行員の名前を出し面会を求めると、一時間近く経ってから当人が現れた。差し出された名刺にはAという苗字と「課長」の肩書がある。「先日Aさんが父に販売した外貨建て保険のクーリングオフをしたいんです。今日が期限なので、とにかく急いで手続きしていただけませんか」私の言葉に、A課長は「ご解約はご本人のご意思ですか」と口にした。当然と言えば当然だが、父のお金をどう使おうが、それは父の自己決定による。「いやぁ、私はドルだのなんだのと言われてもさっぱりわからなくて。せっかく勧めてもらって悪いんですけど、まぁお金は普通預金に入れておいてもいいわけだしね」バツが悪そうな顔をした父に、A課長は畳みかけた。「先日の契約時には、特にご不満な様子はなかったですよね。ご納得の上で購入いただいたと思ってますし、どうして気が変わられたんですか。ご家族の反対があったとしても、決定権はご本人にあるんですよ」厚顔のままグイグイ押してくる態度に驚いた。おそらく契約時にもこんな調子で、父が十分に考える猶予を与えなかったのだろう。「私も年だし、最近は頭もしっかりしなくてね。預金通帳をパッと見て、今いくらお金があるってわかったほうがいいんです。ドルだのなんだの言われても全然知らないから、やっぱり無理ですよ」「つまりご解約されたいということでしょうか」「はい、そうです」「でしたらクーリングオフのご案内をしますが、別途手数料がかかりますので、全額の返金はできません」その手数料が十数万円差し引かれるという。おまけに銀行は単なる販売窓口で、父自身がクーリングオフを申し出る書面を作成し、保険会社に書留で郵送するよう指示された。こちらは素人、どんな内容をどう記述すればいいのかもわからない。加えて期限は今日、郵便局の窓口業務が終了するまであと数時間しかないのだ。「ちょっと待ってください。父は88歳の、ひとり暮らしの高齢者ですよ。これまで一般的な預金の経験しかないし、投資や為替のことなんてまったく知りません。そういう人に向けてリスクのある商品を勧誘した銀行側の責任はないんですか」たまらず詰め寄った私にA課長はあくまでも冷静、いかにも場慣れしたふうに堂々とした態度を崩さない。
「失礼ですが、お父様は認知症があったり、または介護保険の要介護者として認定されていらっしゃいますか。先日の契約時、お父様から介護保険も使わず、元気におひとり暮らしをされていると伺いました。高齢であってもきちんと自立されている方に、いろいろご要望を伺った上でお勧めしたんですよ。こちらとしては落ち度があったという認識はなんら持っていません」こんな場面で介護保険の話が出てくるとは思わなかった。確かに父は介護保険の非該当、「心身ともに自立」と判断されている。日々の生活にはいくつものほころびが生じていようとも、現実に介護保険が打ち切られている以上、どうしたって自立せざるを得ない。父自身も自分らしい生活を送りたいと、自分のことは自分でできるようにがんばろうと努めてきたが、だからこそ自己責任論を持ち出されてしまう。心身ともに自立しているんでしょう。自分の意思と判断で契約したんでしょう。だからあなたが責任を負うのが当然で文句を言われる筋合いはない、A課長からはそんな意識が感じ取れた。ふつうに考えれば言われるままに十数万円の手数料を支払い、クーリングオフの書面をみずから、しかも数時間以内に作成するしかない。だが、簡単に納得するわけにはいかなかった。私は支店長の同席を求めた上で、「適合性の原則」について問いただすことにした。前夜、父との電話を切ったあと、私は猛然と情報収集をはじめた。消費者問題に詳しい知人のライターに連絡を取り、父から断片的に得た情報を伝え、対応策へのアドバイスを求めた。知人からは、国民生活センターの金融商品をめぐるトラブル事例や、銀行の業務に関する相談や消費者との仲裁を行う全国銀行協会という機関があることを教わった。あれこれと検索をつづけ、それぞれの情報に目を通し、ほとんど睡眠も取らずにリサーチした結果、『生命保険・損害保険コンプライアンスに関するガイダンス・ノート』(一般社団法人全国銀行協会 2016年3月)という文書を見つけた。銀行が保険商品の販売を行う際に遵守すべき法令、保険商品の募集にあたり預金との誤認防止の徹底を図るなどトラブルを未然に防ぐための態勢などについて解説したものだ。文書の中に「適合性の原則」があった。〈「お客さまの知識、経験、資産の状況および契約を締結する目的等に照らして、不適当と認められる販売・勧誘を行ってはならない」というルールです〉と記載されている。さらに、〈経済や投資の知識がほとんどない方に、知識がなければ理解できないような商品を、お客さまの理解の有無にかかわらず、一方的に説明して勧誘するようなことをしてはなりません。お客さまがその説明を受けて、「分かった、理解した」とおっしゃられたとしても、客観的にみて理解は困難と判断される場合も同様です〉と具体的に解説している。特に「ご高齢のお客さま」に対しては、いっそうの注意喚起がなされていた。〈ご高齢のお客さまの中にはその場でご理解されても時間の経過とともに内容を忘れられる場合や、ご家族に商品の詳細な説明をすることが困難な場合があります〉、〈ご家族等の同席を受け、商品性を十分検討する期間を設ける等、理解してお申し込みいただくことが重要です〉とある。別枠の「留意すべき点」にも、〈保険募集時にお客さまのご家族の同席を受けること〉と明記されていた。「適合性の原則」に照らし合わせれば、A課長はあきらかに違反している。同席した支店長の見解を求めると、「大変申し訳ありません」と謝罪を口にした上で、銀行側がクーリングオフを申し出る書面を作成するという。さらに「こちらに非がありますので手数料はいただかず、払い込み金額をそのまま返還します」と約束してくれた。父が書面にサインするのを待ち、大急ぎで郵便局から書留を出した。あと10分で郵便の窓口業務が終了するというギリギリのタイミングだった。
結果的にクーリングオフは成立し、半月ほどで850万円は全額普通預金に戻された。それでも終わりよければすべてよしというわけにはいかない。A課長の態度から察するに、同じようなリスクを負う高齢者はほかにもいるだろうし、S銀行以外でも同様のケースは生じているだろう。実際、国民生活センターでは「外貨建て生命保険の相談が急増しています!」(2020年2月)として、次のように注意を呼びかけている。
〈全国の消費生活センター等に寄せられる外貨建て生命保険の相談が増加しています。2018年度の相談件数は538件と、2014年度に比べて三倍以上になっており、2019年度も増加ペースが続いています。また、70歳以上の割合が相談全体の約半数を占めており、平均契約購入金額は1000万円前後を推移しています〉
さらに「相談事例からみる特徴と問題点」では、〈1.外貨建て生命保険の契約であることやリスクについて消費者の理解が得られていない〉、〈2.消費者の意向と異なる勧誘や契約が行われている〉、〈3.認知能力の低下した高齢者への勧誘がみられる〉、〈4.多数契約や高額契約に関する相談がみられる〉、〈5.クーリング・オフをしても損失が発生する場合がある〉と指摘する。父の場合は、かろうじて私に話が伝わった。おまけに私の仕事柄、適切な情報を得て迅速に行動できた。あくまでも「たまたま」事なきを得たが、この一件は父に少なからずダメージを与えた。「こんな世の中じゃ、生きていけないよ」、「俺はもうボケてるのかな? あんな大金をワケもわからないのにドルにしちゃって」、「銀行員は真面目で優しい人だと思ってたのに、どうして年寄りを騙すようなことをしたのかなぁ」、そんな言葉を繰り返し、めっきりふさぎ込むようになった。
むろん腎不全の進行による体調悪化はあっただろう。間もなく誕生日で89歳を迎えることを考えれば当然の衰え、予想の範囲内とも言える。一方でこの時代を生きるむずかしさを痛感し、ギリギリ保ってきた気力が折れてしまったようにも見えた。銀行員は真面目で優しい人、それは父のような世代の人にとって疑いようもなかった。贅沢とは無縁で、コツコツとお金を貯めていけば間違いない、そんな考えも持っていただろう。けれども現実には長年の常識が通じず、自分だけではまったく太刀打ちできない。今回の一件に限ったことではなく、ネットだ、スマホだ、AIだと社会は猛スピードで進んでいき、携帯電話さえ持たない父はすっかり置いてきぼりだ。加えてコロナ禍では親しい人とも会えず、ささやかなおしゃべりを楽しむ機会もほとんどない。定期的に訪問し、何かと気遣いをしてくれたケアマネジャーもいない。「俺はひとりで生活できる」と威勢のよかった父は、「俺みたいな年寄りが長生きしたっていいことないな」と暗くつぶやく。大丈夫、そんなお気楽なことは言えなかった。介護保険は使えない、専門医や訪問医探しは難航、加えてA課長のように「自立」を理由に自己責任を問われることを思えば、私のほうも心が折れそうだ。「おひとり様でもいきいき楽しく暮らす」、「人生100年、最後まで自分らしい終活」、仕事先の出版社から届く週刊誌の見出しがうらめしかった。そうできる人はいい、けれどもそうできないとき、いったいどうすればいいんだと、尿染みのついた父のズボンを見ながら深いため息が漏れた。
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