ひとりで過ごす時間は多い。というより、あきこはほとんどの時間をひとりで過ごしているのね。それが淋しいかと問われれば、(長年の習慣でもあり)全然淋しくはない。ひとりの時間こそは宝、山あり谷あり年齢をかさねた者の特権とまで思っている。人生を深く味わうこと、群れていてはそれはできないのね。
吟行で長く各地を歩いているわけだが、多くは一期一会のかたとさりげない会話を交わし、そのことを川柳にも反映させている。芭蕉が江戸時代前期を歩いたように、あきこは令和を歩いて、”いまを生きる”にんげんとして句を詠もうとしているのね。
時代がこれほど速く進んでいるのに、いつまでも文語で”詩(一行詩)”を詠むというのはいかがなものか。われわれは、現在使われている平易なことばをあやつって、そこに斬新な詩の世界を見出さなければならない。
文語体は、明治までは書き言葉の主流だった古い文体なのね。明治の言文一致運動により、文語体よりも理解しやすい口語体が使われるようになった。現在、文語が実生活で使われることはほとんどないが、文学作品のなかであえて使うことはある。そんなときの文語は、斬新な詩を生みだすインスピレーションの元となるのね。
自由でしまりのない口語を5・7・5の定型におさめることは、文語で詠むよりはるかにむずかしい。その意味で、川柳は俳句よりむずかしいと言えるのではないか。しかし、この文芸のいちばんの魅力は、これからどうにでも変革できるという可能性を感じられるところにある。令和を生きるわれわれが詠むのは、やはり令和の口語でということだろう。
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