4月20日(土)、「石部明 追悼川柳大会」が岡山県天神山プラザにて開催される。午前10時開場ということで、前日近くのホテルを予約済み。初めての参加を考えておられるかたのために、一昨年の「バックストロークin名古屋大会」での石部明氏選の特選句と準特選句、それに評(氏のブログから)を付けて下にアップ。句の「読み」を参考にさせていただきたい。
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「長い」石部明選
特選 長袖を手首出てくるまでが夢 なかはられいこ
準特選 いつもの道が長椅子になった 天谷由紀子
軸 天空のながい睫毛は僧の列 石部明
特選 長袖を手首出てくるまでが夢 なかはられいこ
ワイシャツなら長袖に腕を通して、手首が出てくるまでに1秒もかからないたろう。だがティーシャツの長袖に腕を通すのは結構厄介なものだ。まず頭からかぶって顔を出し、片腕ずつ袖に通すか、タコ踊りよろしく両腕を一度に通す手もある。いずれにしろ、袖口に手首出てくるまでの数秒間が夢の時間だという。この「手首出てくるまでが夢」には驚いた。言われてみれば確かにそうだが、もう一つの驚きは、長袖の中の闇を通って、はたして手首は無事に出てくるのだろうかという不安もある。不安があるからこそ「出てくるまでが夢」なのだ。そして、「ぁぁこの手首は確かに私のものだ」と安心したとき、作中主体は夢から現実に退き戻されるのだ。大層なことを言っているわけではないが、作者の世界観がみごとに表出されている。
準特選 いつもの道が長椅子になった 天谷由紀子
道が長椅子になるわけがないとお思いの方はどうぞ素通りしてください。現実にはある筈のないことを可能にするのが言葉の世界。虚構の中にこそ真があり、不条理な世界こそが生きてある現実かも知れない。
しかし、この句はさして難しいことを言っているわけではない。道端の石に座れば椅子になり、4、5人が並んで座れば長椅子だ。それどころか、路肩の草むらに寝ころべば雲の流れを追いかけるベッドにもなる。それが歩き馴れた「いつもの道」の自在性なのだ。
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いつもの道が長椅子になった
この句で浮かんだのは、21日の新家完司さんのブログの写真。
イメージがつながりました。なんだか謎解きのようで面白いですね。
いそこさま
あっ、そういえばそうですねー。
いわゆる難解句の「読み」は謎解きですよね。選者にちからがないと、鑑賞しきれない。
石部明氏の選は楽しみにしていました。
伝統川柳も詠めてこその革新川柳かと。ピカソがピカソになるのも、「青の時代」「赤の時代」の古典調から始まっているわけですから。
石部明さんには、この方が川柳に命をかけていた言葉が残ります。
死をまじかに、すでに覚悟を決めておられたころのことである。
「フィールド25号誌の編集だけは自分の手でやりたかったが、途中までの編集とさせていただく。26号では完全復活の予定なのでお許しください」
と、25号誌編集後記に綴られている。少しの悔しさを残して明氏は身罷られた。
『 天空のながい睫毛は僧の列 石部明』
りょーみさすけさま
フィールド25号誌を持っているの?
いつでもいいから、見せて下さい。
石部明氏、ほんと、カリスマ。人のこころを掴んでしまう。惜しい人を亡くしました。