投資信託をムリやり売りつけた地元の(上場)●●銀行に「責任」ということばを使った場合、法的責任については分からないが、道義的責任はあると思うのね。銀行という公器には、道義的責任が問われてしかるべきだと思うのである。社会的責任とも言えるだろう。
道義的責任とは、法律上の責任ではない。つまり裁判に訴えることまではできないが、紀陽銀行営業課の投資信託の売り方に道義的な問題があるだろうということなのだ。「(投資信託は)分からないから」となんども全力で断っているにもかかわらず、それらのことばをスルー。「こういうのは、要りません」と言うと、窓口嬢は立ち上がって課長を呼びに行き、連携して(ニコニコ?と)強引に投資信託を売りつけた。面倒になって発作的に買ってしまったのね。一方的に購入へと引っ張られている状況に耐えられなくなった。やけっぱち?になったところへ売りつけられたことが許せないのね。
このやり方は、銀行員として品格に欠けるのではないかと、かれらの上司(副長)に話したのだが。「(ご意見は)参考にさせていただきます(?)」とは言ったが、(むろん?)謝ることはなかった。何をどう言っても、「(銀行としては)署名・捺印をもらっているのだから」ということだろう。これはフェアな営業ではない。しかしやり方に問題があるという法律上の根拠があるわけではなく、明確な責任を問えるわけではない。あくまでも道徳とか社会的正義とかの、曖昧なものを根拠とした責任なのね。どう考えてもかれらが真っ当な営業をしたとは言えない。
法的にはどうにもならないかもしれないが、今回のことでは、銀行員としてのかれらの道義的責任を問うことはできると思うのね。また、問わないといけない。放っておくと同様の被害がでることは目に見えているのね。こういう詐欺的な投資信託の売り方が、法的責任を問われないことがそもそもおかしい。
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