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 喜怒哀楽とは、人間のもつさまざまな感情のなかでも代表的な感情を表した四字熟語である。語源は、中国は周から漢の時代にかけ、儒学者が人の言動、服装や道具について書いた書物『礼記(らいき)』のなかの「中庸」の一文とか。

 喜怒哀楽と、かなしみを表現するのに「悲」ではなく「哀」が使われているのは、「哀」がかなしみをより強く表しているからか。「悲」の語源についていえば、「非」は羽が左右反対にひらいたありさまが表され、両方に割れるという意味らしい。「非」と「心」で「悲」になり、こころが裂けるということ。胸が裂けるようなせつなさが「悲」の本義だと。「哀」の語源についていえば、「哀」は、「口」と「衣」で成り立っていて、「口」を「衣」で挟んでいるのだと。思いを抑えこみ、口を隠して悲嘆にくれるさまを表す。つまり「悲」より「哀」の方がよりかなしさを、こころの痛みを伝えている漢字なのだ。 

 宮沢賢治に「無声慟哭」と題する詩がある。「無声」は声がでていないことを意味する。「慟哭」は、張り裂けんばかりに泣くこと。「哭」には「犬」の字が据えられているが、泣く声はときに獣のようにもなるということを示しているらしい。

 慟哭も「無声慟哭」、極まれば声をださずに泣くことになる。人は泣くとき、大きな声をだすとは限らない。ほんとうにかなしいときには目からのなみだは涸れ、胸中をなみだがながれ落ちる。こういう経験は多くの人にあるのではないか。かなしみの底にいて、それを悟られまいと、微笑を浮かべることすらあるかもしれない。

 「哀しみ」は、「哀れ」を「あわれ」と読むように、他者のかなしみも自分のかなしみのように感じる。この世から哀しみがなくなることはないのだ。愛があるところにはかならず哀しみがある。哀しみの経験は人を深くする。

 川柳に、人としていちばん深い感情である「哀しみ」を詠むこと。やさしいことば、これまでの人生でつかってきたことばで句を詠む。このことは自分が何を感じ、考え、生きているのかをあらためて認識できる行為でもある。生みだされた川柳に驚くのは他者ではなく、自分自身であるかもしれない。

 愛のある川柳は、贈り物にもなり得る。宮沢賢治の詩のように、亡き人への、このうえない捧げものにもなる。文字は目に見えても愛は見えない。しかし存在する。川柳に詠み、書きつけることで、目に見えないが疑うべくもないこころを感じさせてくれる。いつものことばで、ありのままを詠むことだ。たいせつな人にむけて。

 脈絡のないことを言うようだが、スーザン・ボイルの歌声はたむらあきこの川柳なのである。たましいのもっとも切実なところ、「哀しみ」から表出されている。だからなんども、なんども泣けるのだ。

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