還暦を超えたら、自分の人生にとってほんとうに価値があると思われるものだけを遺すために生きてはどうだろうか。お金で買えないもの、遺すに足るものとは何かをよく考えてみたい。
私たちの未来にもし“絶対”と言えるものがあるとしたら、それは「死」にほかならない。この地上に生を享け、いまを生きている誰一人として「死」を免れることはできない。いのちの長さは、長短はあっても有限である。健康なときには「死」というものの存在を忘れがちなのだが。
この春からコロナが流行りだし、予期せぬ「死」のニュースを耳にすることがあった。患者は病院に隔離されてしまい、そのまま今生の別れになることがあるという現実に驚愕した。たいせつなひとの「死」というものは、いのちの残り時間の宣告を受けてから出来ることを精いっぱいしたとしても、後悔があるといわれている。まして、コロナで亡くなったときのような突然の別れであれば、その後悔はどのくらい大きなものであることか。
生前、早い時期に「遺書」を書いておく人が増えているらしい。自分が亡くなった後、大切な人たちに何を伝えたいか。16年前に亡くなった父に遺書はなかったが、口頭で伝えられたことは、「(父のたいせつな家族である愛犬)ゴンとロックを頼む」。
じつは、父の遺言はこれがいちばんの重大事だったのね。(結局、父のさいごを看取ったあきこが二匹を死ぬまで世話したのね。) 父に遺書はなかったが、遺書というものはそのひとが亡くなった後でそのひとの願いを叶えるという行動が、残された者のなぐさめになったりもするのである。
健康で順調なときには富を得ることにもちからを注ぐ。けれども、「死」を前にしてはあの世に何も持って行けず、また誰かと一緒に逝けるわけでもなく、ただ一人で何もかも残し旅立つしかないのね。
何を遺すか。わたしは、それは“こころざし”だと思っている。前田咲二先生の遺句集を編み、遺すことに奔走しているわけは、先生の“こころざし”があったからである。「(瓦版の会に)後継者として来てくれ。交通費も同人費ももつから、来てくれるだけでいい」とまでおっしゃって下さったことにいまも感謝しているのね。その“こころざし”にお応えして、足かけ十年を瓦版の会に所属し、会を支えさせていただいた。そのことにいまも一切悔いはない。先生は、わたしのこころの中に先生の“こころざし”を遺されたのである。
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