百八つの赤がざわざわしっぱなし きさらぎ彼句吾
「百八つ」とは、仏教で人間の煩悩の数をさす。数珠の珠の数や、鐘をつく回数などはここからきている。
煩悩とは仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧(ちえ)を妨げるこころの働き。仏教では、苦の原因を自らの煩悩ととらえ、克服する道が求められた。大乗仏教では、のちに煩悩を否定しないという初期の仏教には無かった発想も生じてきたようだ。煩悩とは、自己を中心に据えて思考したときに起きるこころの働きである。
この句、煩悩の「赤」が「ざわざわしっぱなし」であるという。煩悩をひと文字で表すとされる108画の漢字があるらしい。その漢字は、「苦平悪意舌耳女子身鼻眼浄染」で構成される一文字なのだとか。そのすべての「赤」が「ざわざわ」するとは〈にんげん〉に生まれたが故の業(ごう)なのかもしれない。
どんな環境にあっても、ものごとがうまくいっていたとしても、苦しみ悩みはなくならない。私たちを苦しめるものは、自分の外側にあるのではなく、むしろ内側にあるのではないかと。
かみさまの膝から上を見てしまい 佐々木久枝
2017年の○○八幡宮での宮司殺害事件はまだ我われの記憶に新しい。殺された宮司の信じがたい夜遊びスキャンダルなど、こんなことがあるのではと、神社・神職への信頼が揺らいだ方もおられることだろう。
このことがなくても、いま我われの生活から宗教的な習慣がどんどん衰退しつつある。宗教の存在理由について、改めて考えてみることも必要なのではないだろうか。
この句、いままで疑いもせず敬虔な気持ちでその足元に跪(ひざまず)いてきた「かみさま」だったがと。あるときふと「膝から上」を見ると、その「かみさま」が札束でも数えていたのではないだろうか。
雨になる記憶つなげるズブロッカ あまの太郎
ズブロッカとは、ポーランドの世界遺産「ビャウォヴィエジャの森」で採れるバイソングラスを漬け込んだウォッカだとか。やわらかな香りと、まろやかな飲み口が特徴らしい。
この句、かつてその「ズブロッカ」を誰かと囲んだときのことを思い出している。「雨」は涙。「記憶」を手繰ると涙になるというのである。この酒を口にするたびに、その「記憶」が自ずから呼び覚まされてしまうのかも知れない。いま「ズブロッカ」を舌に転がしながら、しみじみ回顧する作者。
大根の白さで殴りたいあの子 倉間しおり
若々しい句。みずみずしい「大根」のような作者のこころの「白さ」をことばでぶつけて、イケナイ「あの子」を懲らしめたいと。作者は潔癖な思春期の女の子で、この句は正義感からでたものなのだろう。
眼にさぼてんを植えてあきらめる 三浦以玖代
灼熱の砂漠地帯で、大きくもっこりそびえ立つ「さぼてん」が目に浮かんでくる。荒地で鍛え抜かれる「さぼてん」、長い時間をかけて美しい花を咲かせる「さぼてん」と、想像が広がる。
しかし、句の「さぼてん」は単純に「眼」にトゲがあることを言っているのかも知れない。「眼にさぼてんを植えて」とは、トゲのある怒りのまなざしをつくって、とでもいうのだろう。怒りはまなざしだけに留めて、あと作者はそのことを口には出さずに「あきらめる」のだと。
〇
人間存在そのものがいわば謎なのだから、侃々諤々の議論の的になる難解句があるのは当然。むしろ難解でない句、いちど読めば「ああそうですか」式に終わってしまう句に何の感興があろうか。レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』が長く魅惑的な微笑みで人のこころをとらえてきたのと共通するものが難解句にはある。
〈一読明快〉ということをよく言われるわけだが、いちどよく考えてみる必要がある。簡単に理解される川柳だけがよいとは、とても思えない。表層だけを詠んだ句なら、いくらでも転がっている。そこに何の魅力も発展もない。また句の解釈も、一義的でなくてはならないということはない。読む人の数だけの鑑賞があってしかるべきなのである。ただ、難解さも人間存在の深層にせまるものでなくてはならない。コトバを玩ぶだけの難解句であってはならない。(一年間、ありがとうございました。)
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