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 幸福とは、心が満ち足りていること。人はずっと幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。幸福であるためにはどのような生き方をすべきであるか、その方法論を提示した文章・書物も多い。

 「生きること」以上に「よく生きること」を重視し、正しく知ることが重要であると説いたのはソクラテス。アリストテレスは、幸福とはだれもが求める目標でありかつ究極目標であると述べている。(写真:ソクラテス)

 古代中国の人間訓に「人生万事塞翁が馬」がある。下記はそのあらすじ。
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 ある城塞のほとりに、老人とその息子とが暮らしていた。ある日、彼ら親子の馬が突然逃げ出してしまったため、周囲の人々は馬を失った親子を気の毒がったが、老人は「不幸かどうかは分からんよ」と、意にも介さない。まもなく、逃げ出した馬は立派な馬を連れて戻ってきた。不幸が転じて幸運となったため、周囲の人々は親子の幸福を感心したが、老人はやはり意に介さない。まもなく息子がこの馬から落ち、脚が不自由となってしまったため周囲は同情したが、それでも老人は意に介さない。その後、戦争が始まって村の若者は徴兵され、ほとんどが戦死してしまったが、息子は脚が不自由であるため村に残った。こうして、老人と息子はともに生き長らえた。
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 「塞翁が馬」は、人の幸・不幸は代わる代わる訪れるため片方ばかりは続かない、ということを言っている。ある出来事や現象がその瞬間には幸福に見えようが不幸に見えようが、それが本当にそうなのかは、その後の長い時間を経てみないと分からないということだ。

 幸福を欲求の充足に結びつけて考えてしまう人にとっては、欲求が満たされればそれは以前の状態に比べて幸福ということにはなるが、この欲求の正体が分からず、自分が何を求めているかが分からずに焦燥感に駆られる人や、欲求に主導権を譲り渡してしまったことで欲求が限りなく膨張しつづけ、それを満たしつづけることが出来ず苦しむ人も少なくない、という。

 「幸福である」という状態はその人の主観において主体的に見出すことなのである。どんな状況においても、みずからのこころのありかたを意識的に選び取ることによって見出すことができるのかも知れない。幸福感をもっている人に共通する内的な特徴は“自分自身のことが好きである”すなわち自己肯定感があること。加えて主体的に生きているという感覚をもてていることなのではないか。 

 わたしは1951年生まれ、戦後生まれなのね。子どもの頃は周囲もみんな貧しく、カレーライスがご馳走だったくらい。それでも戦争などで命の危機というものを経験したわけではない。命の危機や衣食住の危機を経験していないと、幸福の感度がすこし鈍くなっているのかも知れない。

 ところが、新型コロナによって命の危機を感じることになったのね。これから衣食住にも困るということをはじめて経験する人々も出てくる。でも、戦中戦後を生き抜いた人々のように、幸福への感度は逆に鋭くなるかも知れないとも思うのね。敗戦で、もう空襲もない、戦争がやっと終わったというよろこびと安堵。これは幸福感にほかならない。

 新型コロナで、目の前の困難がしばらく大きく強くなるかもしれないが、戦争が起きているわけではないとポジティブに考えること。いまここで息をして存在しているということ、それだけでもありがたいというように前向きにシンプルに考えるのね。ともに前を向けるかどうかが、こんな非常事態にも幸福感につながるのではないかと思う。

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