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  川柳という表現手段                     加藤当白

 宇宙飛行士の油井亀美也氏が、ある対談番組でこんなことを言っていた。「僕は理系人間なので、宇宙に行ったときの感動を伝えることが全然できなかった。芸術家である人にぜひこの景色を見てもらい、地上の人たちに伝えてもらいたい」―

 川柳をやっている人間ならどんなことを伝えるのだろう。宇宙船から見下ろした地球の景色をそのまま詠んだところで、それだけでは川柳にならない。私は今の川柳界で名を轟かせている作家の方々をその場に立ち会わせ、どんな句が生まれてくるのかをぜひとも見てみたいと思うのだ。

 試しに自分ならばどんな句を作るのか、いや、どんなことを句にするのかを想像してみる・・・

(1)生まれてからこの方、自分が体験してきたことのすべては、所詮この地球上だけで起きたこと。今まさに、その舞台が自分の足元に浮かんでいる。(俯瞰)

(2)宇宙の大きさに対して、なぜ地球はこの大きさなのか。そしてそこに暮らす生き物はなぜそのサイズなのか。(疑問)

(3)見ているのは地球の表面でしかない。内部はどんなことになっているのか。(想像)

(4)もし今ここで地球が消滅したら、宇宙船内での生涯をいかに過ごすか。(仮定)

(5)神の目線。なぜ我々を生ませたのか。なぜ我々はこの地球に生まれてきたのか。(目的)

 ・・・これらの発想から川柳。自分の思いつきながら、なかなかに難しい。ここでは作らない、いや、結局は実際に経験していないので作レナイ・・・。

 油井氏の場合は、感動は覚えたものの、その表現手段を持ち合わせていなかったということである。翻って、川柳に出逢う前の自分にも、果たして表現しうる手段がなにかあったのかを考える。楽器経験はあるが、表現手段としての道具に至るまでの、技術習得の壁の高さに跳ね返されてきた。他になにかで自己表現をしてきた経験もこれといって思い当たらない。文系か理系かでは私は文系だが、あらためてガックリする。だからといって、感動する心が備わっていない、ということではない。内に生じた感情や感動を、外に出すという行為、とりわけ文芸的に表現する、という機会がただなかっただけのことだ、と思い直す。

 川柳という表現手段に出逢ったのは幸いだった。始めたきっかけとしては、うちの子供が私の知らない間に自転車にスイスイ乗れるようになっていた光景にいたく感動し、この気持ちをなにがなんでも表現したいという強い衝動に駆られたとき、ひとつの短歌ができあがったことだ。

 <自転車を初めて一人で操って親の腕から飛び立ってゆき>

 これを地元紙の短歌欄に投稿したら末席で掲載された。それからというもの、元来、川柳家で一冊の句集を遺していた祖父(加藤当百・明治41年生)の影響もあり、自然に川柳という文芸に足を踏み入れる。今度は同紙の川柳欄に投句を始め、二度目の掲載にしてトップの秀作に選ばれた時の喜びが、一気に私を川柳にのめり込ませた。私の原点である句。

 <留守電にまだ生きていた父の声>

 この句の掲載から今日までほぼ4年が経過。この間に、4名共選のうち3名から「天・天・天」をいただいて、爆発的な喜びをくれた句をもうひとつ。

 <愛されるプーさん 射殺される熊>

 祖父とは生前同居していたが、いつも目をつむって考えごとをしている姿を、幼少の頃から見ていたのを思い出す。そうか、あれはきっと川柳を捻っていたのかと、今になってガッテンする。そんな祖父に一度でも教えを仰ぐことができていたらと、ここまで独学で悶々とやってきた私は叶わぬ夢を見ている。

 私は川柳という表現手段を得た。ではなぜ川柳でなければいけないのかを、あらためて考えてみる。・・・ただ好きだから。これにすべての理由が含まれているのだが、むしろこれだけで理由などいらないのだが、それでは説得力に欠けるだろうから少し捻り出してみよう。同じく言葉を用いて自己表現する文芸について、ひとつひとつ消去していく。あくまで、私にとっては・・・

(1)小説-修飾が多すぎる。「マンションの一室」で済むものを、部屋の広さから家具の配置、明るさや室温に至るまで、話の展開に必要のない説明が多い。過度の修飾が読み手の想像力を限定する。

(2)詩-形式が自由すぎる。「制約の中でこそ名人はその腕を示す」。一定の制約を設けないと試行錯誤も工夫も生まれない。

(3)短歌-音数が多すぎる。説明的。

(4)俳句-心情を詠むのにも季語を入れねばならず、回りくどい。自然詠で幅が狭い。

 ・・・こうして残った川柳。これらの裏を返せばそのまま川柳の魅力となる。読み手が勝手に想像できる、十七音という制約から創造性や意外性が生まれる、説明不要、一番おもしろいのは心の機微を幅広く詠める人間詠。シンプル・イズ・ベスト。だから私は川柳がいい。他を消去などせずとも、私にとってはこれだけで圧倒的な魅力である。いずれの文芸も好きだし、純粋に楽しむための鑑賞もするが、川柳のことが頭から離れることはない。なにを読んでいても、創作過程や表現技法、アイデアなどを川柳に直結させてしまう。

 ではその川柳でなにを表現していくのか。正直なところ、幅が広すぎてコレということは難しい。いや、まだ自分でもつかめていない。それでも強いて言うならば、「自分の内に既にあるもの」とでもなろうか。

 「感性は元々ちゃんとあるもの。私がこれまで聴いてきたクラシックのピアノやどこかで耳にしたビートルズ。これらのすべてが細かくパイみたいに積み重なって体の中に入っている。それがつまり土壌のようなもの。その土壌からふと芽が出てくる。アイデアというのはまったくなにもないところから隕石のようにウワーッと来るものではない」。冒頭の油井氏の対談相手、ミュージシャン・矢野顕子の言葉である。

 そう、表現するものは外に求めずとも、既に自分の内に存在しているのだ。そしてこれこそがオリジナリティである。私にはこれまで、表現したいものがあってもそれを外に出す手段がなかっただけに、川柳という表現手段を得た今、内に埋まってきたものを大いに表現していこうと思う。そのためには自己対話といった土壌を耕す作業、自己表現といった芽を育てていく作業が求められよう。目下の目標は、どこを切っても自分の血が噴き出すような独自の世界観を築くこと。そしてあの世にいる祖父をニヤリとさせるのだ!

 <強烈な自我へ落款などいらぬ>(全文、ママ)

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ブログの読者からの投稿❷‥「川柳という表現手段」(加藤当白)”にコメントをどうぞ

  1. 加代 on 2019年10月9日 at 9:34 AM :

    まさにその通り!
    同感!
    当白さんの今の熱いお気持ちが伝わってきました。
    わたしの気持ちを代弁してくださったようでとても嬉しいです。
    新葉館Web川柳句会でもよくお名前を拝見します。
    これからもどんどん前に進んでください。

  2. たむら あきこ on 2019年10月9日 at 9:56 AM :

    加代さま
    当白さんがこのコメントを見て、喜ばれることでしょう。
    若い方の今後に期待したいと思います。

    たぶん、加代さんのコメントに返信があると思いますので。もういちど開いてみてね。

    • 加藤 当白 on 2019年10月9日 at 8:27 PM :

      加代さま
      はじめまして。とっても嬉しいです!
      川柳も文章も手探り状態ですが、
      今後とも応援していただけたら励みになります。
      コメントありがとうございます!

      • 加代 on 2019年10月9日 at 8:59 PM :

        当白さま
        私は今川柳塔者同人です。
        「川柳塔」ホームページを覗いてもらえば、ミニ句集欄があります。
        そこに私のミニ句集が掲載されています。若い同人の人が骨を折ってくださいました。
        これからは若い人は遠慮なくいろいろなことを企画発表されていってほしいです。
        期待しています。

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