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 3歳で亡くなった秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺・祥雲寺の大仕事が等伯のもとに舞い込む。派の長である永徳を亡くし動揺を隠し切れないでいるところに、「京都第一の寺」と言われた祥雲寺(智積院)障壁画の大仕事を等伯率いる長谷川派に持っていかれた狩野派の憤りは、計り知れないものであったと思われる。等伯は、永徳を強く意識しながらも、金碧障壁画でありながら狩野派にはない抒情的な表現を試み、名実共に狩野派に対抗するまでになった。(写真上:長谷川等伯筆 国宝「楓図」)

 その等伯を次々と悲しみが襲う。この障壁画完成の前年に、よき理解者であった千利休が自刃。その悲しみの中で完成させた矢先、等伯の片腕となって制作にあたった息子の久蔵までが、26歳という若さで亡くなってしまう。(写真中:長谷川久蔵筆 国宝「桜図」)

 

 

 その悲しみを背負って描いたと言われるのが、「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)。これは等伯筆「楓図」や久蔵筆「桜図」など祥雲寺の一連の障壁画と同じく、国宝に指定されている。当時、七尾の海岸沿いにはずっと松林が続いていたと考えられる。描かれた松林は、強風に耐え細く立ちすくむ能登の松林に、あまりにも似ている。千利休を亡くし、息子久蔵を失った等伯の目に映ったのは、郷里七尾の松林だったのかも知れない。心象風景とも見える「松林図屏風」には、大切な人たちの死を乗り越え、水墨画にその境地を深めていった等伯の心情が映し出されている。(写真下:長谷川等伯筆 国宝「松林図屏風」)
続きは次回

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