(写真:金剛峯寺、柳の間(やなぎのま))
山本探斉(やまもとたんさい)による柳鷺図(りゅうろず)が描かれていることから柳の間と呼ばれる。文禄4年(1595年)に関白豊臣秀次が自害したことから「秀次自刃(じじん)の間」ともいわれている。
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来月19日(水)からの三回目の高野山吟行にそなえ、壇上伽藍近くの宿坊を予約。次回は壇上伽藍と霊宝館を中心にじっくりと歩き回り、詠んでくることに。やはり千二百年もの歴史がある地となると、少なくとも4,5回は足を運ばないとなにも詠めたということにはならないだろう。
嫡子・鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、秀次は改めて秀吉の養嗣子とされ関白の職を譲られ、家督を相続。ところがそののち秀吉に嫡子・秀頼が誕生、理由は諸説あるものの秀次は強制的に出家させられ高野山青巌寺に蟄居となり、のち切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首にされ、その際に眷族もことごとく処刑された。
秀次の首が据えられた前で妻子侍女など39名を処刑、秀次の首とともに埋められ、見せしめの塚がつくられた。1611年(慶長16年)高瀬川開削時に塚と石柱が見つかり、現在も瑞泉寺の境内にあるとか。歴史には、いろいろと考えさせられますよね。(- -;)
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