順徳上皇の終焉の地 堂所御所(どうどころごしょ)跡。このあたりには何もなく、ただ石碑一基が立っているだけらしい。佐渡のこのような山奥に順徳上皇(第84代天皇)がいらっしゃったとは。仁治3年(1242)9月12日崩御。都に帰る望みがないのと、患ったことから断食、最期はみずからの頭に焼け石をのせて亡くなられたとか。
小倉百人一首100番の御製。
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院)
つぎは承久の変に敗れ、佐渡へ配流(はいる)となった上皇の辞世。
思い(ひ?)きや雲の上をば余所に見て真野の入り江にて朽果てむとは
在島22年、46歳で崩御。京に帰る日を待ちわびておられたようだが、北条泰時は断固としてはねつけたらしい。延応元年(1239)、隠岐で父後鳥羽院が崩御。そうした情報は順徳院にも伝わっただろう。京に帰る望みが絶たれたうえはと上記のように断食を決行。焼け石を頭にのせて亡くなられたとは、なんとも苛烈、壮絶。翌日ご遺体は火葬され、寛元元年(1243)、遺骨となって京に戻り、後鳥羽院の大原陵の傍に安置されたという。
堂所御所跡に近い真野御陵は、順徳院の火葬塚。 現在は宮内庁書陵部の管理になっているとか。還京の思いを断ち切った鎌倉幕府を、順徳院はさぞかし恨みに思われただろう。幕府としても順徳院が怨霊として祟るのではないかとおそれたようで、佐渡院から順徳院へと諡号(しごう)がなされている。〈徳〉という字はどうやら不幸な身の上の天皇の怨霊化をふせぐために諡号のときに用いられるらしい。孝徳、文徳、崇徳、安徳、顕徳、そして順徳と。
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