自分はどういう人間なのかとか、ふだんそんなことを考えて暮らしている人はまずいないだろう。私もとくに考えたことはない。子育て、親の介護ほか〈(義務として)必ずこれだけはしなければならない〉ということを終えて、それからが自分のための人生だと思っていた。父を見送って悲しみの中にも肩の荷が下りたという感じ、これが十数年前のことである。それから、すでに始めていた川柳に打ち込んだわけである。完全主義なので川柳に没頭、いまは月にまず500句は詠んでいるだろうか。
鴨長明(かもの・ちょうめい)の『方丈記』に「 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。(川の流れは途絶えることはなく、(しかもそこを流れる水は)もとの水ではない。川のよどみに浮かんでいる水の泡は、一方では消え、一方ではまたできたりと、そのままの状態で長くとどまっている例はない。この世に生きている人とその人たちが住む場所も、また同じようなものである。)」とあるが、還暦を過ぎた私のこころもやはり同じような〈無常観〉、文芸的美的理念の〈もののあは(わ)れ〉というようなもので占められているような気がする。世の中のすべて、人のこころも含めて永遠に変わらぬものなど無い。何かに執着しているから苦しむ。いまをどう生きるかと、そこにつながっていくのである。
知人が伊勢神宮に奉職していることがきっかけで神宮方面によく出かけるようになった。だいたいは川柳大会のあと。この地は何度訪れても安らぐ。疲れたこころを癒やし、さらに自由にしてくれる。神宮の境内をどこからどこへということなく、ふらふらと歩き回る。人影のあまりない時に参拝すればごく自由に歩き回れる。清浄で押しつけがましさのない空間なので、呼吸が楽。何も持たないで歩き回るのがいちばんよい。要するに身体とこころを自由にするのである。深い森に澄んだ空気と水音、簡素な素木(しらき)のお社(やしろ)。
人生も後半なのだから、これからは身体への無理も、こころを理不尽に抑え込むこともできるだけないようにと思う。言うべきことを、言うべきときにきちんと言う。場合によっては対立、孤立してもよいという心構えが必要だろう。後悔を引きずらないためには、いやなことを避けて通る消極的な幸せより波乱もある不幸せのほうが人生はおもしろい、と斜めの覚悟を決めてもよい。私の場合、何があってもとらわれずにひたすら川柳を詠もう、というところに行きつく。どちらかと言えば流されることのない是々非々(ぜぜひひ)主義。優柔不断の柳のように見えて、芯は持っている。何ごとも自然体を尊ぶ、潔癖な日本人であるというところに落ち着くかもしれない。
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