いずれ訪れる死の影に支配され、日常的に死を抱え込んでいるともいえるのが私たちの生。生きている限り細胞は増殖、消滅をくりかえす。その細胞の一つひとつにいまを生きる「私」という命を与え、輝かせ、川柳という形式に収斂(しゅうれん)させようとする。それが私の川柳行脚である。(写真:ウスバカゲロウ)
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川柳マガジンクラブ大阪句会に時どきおじゃましている。作品批評を期待されているので、感想程度ではあるが、述べさせていただく。次第に熱が入ることもあり、批評はややきびしい対応をさせていただくが、決して感情で受けとめないで欲しいといつも申し上げている。ひと言でいえば批判を怖れず、新しい自分の発見を折角の作品の中で試みていただきたい、ということ。
作品発表は読者の共感を得ようとし、批評を求める意志の表明だろう。しかし、創作は他者の共感を得るためのものであってはならないとも思う。常に自分の内面に向かって詠む。自分と格闘することが創作というものでなければならない。
句会大会などでは緩く向き合うこともある。課題があり選者がいる以上、競う心理がはたらくことも否定できない。しかし、「抜ける抜けない」の世界から離れた位置にこそ創作というものの場はある。そのことだけは肝に銘じて川柳行脚を続けている。
ところで、事実を羅列するだけではいくら言葉をつくしても、それは事実の積み重ねであって真実にはならない。言葉の虚構をくぐらせて真実にたどり着くことこそが表現というもの。文芸か、文芸未満かもそこが分かれ目ということだろう。
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谷垣郁郎さんの急逝、脳天一撃です。数日前に郁郎さんからタケノコの冊子を手渡しで貰ったばっかりでした。そのときの表情はいつものように、穏やかで笑顔を浮かべておられた。何度か電車で一緒になった時、全国京都大会の話題で、私が「お疲れでしょう?」と訊ねると、郁郎さんは「大変です」と答えておられた。疲れたという言葉を決して口にしない川柳べったりの人であったのだと思う。どれだけの結社を回っておられたか、今、思えば相当疲れを溜めておられたのでしょう。郁郎さん自身も、こうなると思っておられなかっただろうから、ただただ、その命を惜しむばかりです。合掌。
※ 川柳人には、このような川柳どっぷりの方がいっぱいおられる。今更ながら、身体は必ず信号を送っているはずだから、決して無理をしないように、自分は自分で守ってもらわねばならない。
りょーみさすけさま
ねえ。悔しくてならない。大好きな柳人でした。
いい方でしたよねえ。沢山の荷物を抱えすぎたのか。
呆然、です。あとでブログに書きます。信じられない。あの声、あの微笑み、一生忘れません。
「細胞の一つひとつにいまを生きる「私」という命を与え、輝かせ、川柳という形式に収斂(しゅうれん)させようとする」
あきこ様、おこがましいですが、私も最近ようやくこの様に思っていたところです(^^)しかし、あきこ様のレベルにはまだまだの私ですが(^^;)
大会は私はゲームと考えています。選者に取って貰えないと大会に来た意味がないし、ですから、ルアーで魚を釣る気持ちで大会に臨んでいます(^^)
大会の句はルアーです。いわゆる疑似餌………
私本来の句ではありません。私本来の句には似ていますが、つり上げる為に加工してある疑似餌です。
でも、私から出た句は、やはり私の句に似ています(^^)他人の句ではありません(^^;)
ルアーフィッシングと考えるまでは、あまり大会を楽しめなかったのですが、イベント、お祭り、ルアーフィッシングと考えるようになり、大会を楽しめるようになったのです(^^)
「事実を羅列するだけではいくら言葉をつくしても、それは事実の積み重ねであって真実にはならない。言葉の虚構をくぐらせて真実にたどり着くことこそが表現というもの」
ありがとうございます(^^)この言葉を胸に刻みます(^^*)v
伊東志乃さま
加久さまからのコメントが「川柳塔本社9月句会~瓦版9月句会」にあります。お返事をよろしく。(^^)
ルアーフィッシングですか。それも大会の楽しみ方。仮装舞踏会みたいなものですね。地味につくっていては選者の目を引かないわけで。
どちらにせよ、詠み続けていくことかと。今日も明日も明後日も。