わたしは、川柳を詠む旅をこの26年間ひたすら続けてきた。旅に出ると、景色が変わるだけではなく、心の奥に沈んでいた言葉のあれこれがふっと浮かび上がってくる瞬間がある。川柳を詠む旅の楽しさとは、まさにその「言葉が立ち上がる瞬間」を追いかける楽しさなのだと思う。日常の中で見過ごしてしまう心の小さな揺らぎ、胸の奥に残った微かなざわめきが、旅先では急に輪郭を持ち始める。知らない土地の風、初めて聞く水音、見慣れない人々の声など、それらがすべて五七五の器にすっと収まる素材へと変わっていく。
旅の途中ふっと浮かんだ一句が、思いがけず自分の内側を照らすことがある。たとえば、ある朝の光の中で生まれた次の句。
《わたくしに真水を足してくれる旅》
上の句には、作句の旅がもたらしてくれた浄化の感覚がそのまま息づいている。日々の生活で少しずつ濁ってしまった心に、旅という名の清水が静かに注がれていく。周囲の人の誰かに癒やされるということではなく、風景そのものが、移動という行為そのものが、わたしの内側を洗い直してくれる。川柳を詠む旅とは、その「洗われる瞬間」を言葉としてすくい上げる営みでもある。
旅先で詠む川柳は、完成度よりも「そのときの自分の呼吸」を残すことに意味があるのかもしれない。今年出版予定の『たむらあきこ地球一周吟行500句』にしても、1,200句ほど詠んだうちの700句は捨ててしまっているが、読み返すとそれぞれの地での感動がどの句からもよみがえる。例えば、駅前のベンチで見た老夫婦の距離感、海辺で聞いた子どもの笑い声など。どれもが一瞬で過ぎ去るが、川柳にすればその一瞬が永遠のかけらとして残る。旅は移ろいであり、川柳はその移ろいをすくう網のようなものだ。
旅の川柳には「土地の声」が混じる。京都なら石畳の響き、東北なら風の冷たさ。土地ごとの空気が句の中に入り込み、川柳作家の視線と混ざり合うことで、日常では生まれない独特の味わいが生まれる。旅を重ねるほどに句の中に自分を通した世界が増えていき、言葉の奥行きも深まっていく。
何より、旅先で川柳を詠むと自分が「生きている時間」を強く感じる。移動し、見て、感じて、言葉にする。その連続が、心の中に新しい水脈をつくる。だからこそ、《わたくしに真水を足してくれる旅》なのだ。
旅は、心の底に澱のように溜まったものを揺らし、新しい透明感を取り戻させてくれる。川柳は、その透明感を形にするための小さな器。旅をしながら川柳を詠むことは、世界と自分の境界が薄くなるあるいはなくなる瞬間を記録する行為でもある。だから旅は楽しく川柳はやめられない。
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旅先で川柳を書き留めるのはノートでしょうか。どんなノートやペンをお使いですか?
私は自意識過剰な人間なので、旅先で川柳を書くというのも「カッコつけ」になりそうで、まともなものは残せないと思っているのですが、今年は知床と四万十川への旅を計画しているので、試みてみようかと考えています。
カタチから入るタイプなので(笑)、旅川柳を書き続けるためのアドバイスがあればぜひ。
月波与生さま
わたしは、ノートを持っていません。
句をノートにきちんと書き留めていくという行為は、それだけで宿った詩情をそこねてしまうのです。
で、その辺にある紙の切れはしを使います。
なんでもいいのです、ひたすら走り書きするので。
ペンも、その辺にあるボールペンで充分。
足腰がいまいち、ノート一冊の重さがつらいということも理由の一つです。
知床も、四万十川も、一度は吟行してみたい場所ですね。
わたしの川柳はつねに自分の内側への旅、風景はたんに句作にインスピレーションをもらうために在るだけなのね。
アドバイスというほどのことはできませんが、嘱目は風景の説明に終わらないように、それだけかな。