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 久しぶりに姉の車で実家の掃除にでかけた。それまで一緒に昼食。うどん屋のエビ天丼、しっかり味が付いていて美味しかった。加太へのドライブを楽しんでから、草ぼうぼうの実家まで。草とは言っても色とりどりのコスモスなど、入り口付近からいっぱいに咲き乱れているのね。

 仏教でいう生(しょう)とは、新しいいのちとして繰り返し存在しつづけること(輪廻)。出生は、物理的に痛いものよね。産婦だけではない、赤ちゃんもどんなに苦しんでいることか。現世に産まれることは、たぶん絶望的かつ恐ろしい経験だろう。胎内という、あたたかく栄養を母体を通じて得ることが保証された環境にいることの終わりであり、生き残るための闘争の始まりを意味するのだから。

 出生とは、その結果は一つの例外もない死であり、究極的に避けがたい消滅へ向く。出生の結果としてもたらされる喜びが何であろうと、生には苦やストレスの要素が含まれる。現世でのわれわれのほんの暫くの滞在、その中に生病老死(しょうろう-びょうし)が入っている。

 生老病死とはたんに「生きる、老いる、病む、死ぬ」ではなく、「生苦、老苦、病苦、死苦」の意。避けることができない、根源的な苦しみのことなのね。とくに女性にとっては、老いて醜くなることなども苦しみの一つだろう。生きることそれ自体がもはや苦しみだというのね。

 実家の庭に咲きこぼれている花。満開をちょっと過ぎたばかりだっただろうか。雑草ながら圧倒的に美しかったのだが、これもあと少ししたら醜く枯れて憎まれるだろう。まさに、生きているうちが花、生きていることが花なのである。「ひとは生きてきたようにしか死なない」とは、どなたの著書の題名だったか。花も人もおなじ、今現在の生の続きに死がある。

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