わたしにとっての旅とは何だろうか。朝起きて湯を沸かし、カフェオレをつくって飲み、ベランダの鉢植えにもたっぷりの水をやる。わたしも植物も今日いちにちの旅の始まり。いちにちは、体内の水を大きく動かすことから始まる。
旅の枕詞は「草枕」。草枕とは、旅先で草で仮の枕を編んだことに因むのね。わたしにとって旅は目的地に着くことばかりではなく、移動中にさまざまなものに五感で触れることが愉しみとなっている。人々の様子、ほかさまざまを身のうちに取り込むのである。それが、いつか濾過されて句になってゆく。
吟行であちこちでかけているが、関心はわたしの内側に向く。内側を掘る旅。そのために外界からの刺激を必要とするのである。それがわたしの旅。人や自然、モノとの「出会い」。出会いが旅。出会いが自分を知ることに繋がるのね。新しい価値観を呼びこむ。いままでの自分軸をすこしずらしたところに、新しい自分軸を立てる。旅により、物理的に精神的にひとつの境界(壁)を越える、そのことが旅の目的なのね。人それぞれに旅はさまざまな価値をもつだろうが、わたしは旅を単なる娯楽とはできないのね。
いつか近いうちに世界一周旅行(吟行)をしてみたいと思っている。ユーチューブでクルーズのいろいろを見て参考にしているのだが、だいたいは直感的に「これではない」と思うのね。豪華客船などでの旅は、わたしの思う旅ではない。そもそも商業主義のお仕着せはダメなのね。もともと物質的な贅沢とは縁のない暮らしをしてきているので、そういうものは合わないのね。おカネをかけた美食なども、それを羨ましいとは思えない感性がある。
わたしのように、「旅とは何か」と考えて旅をする人はあまりいないだろう。想像で自らの旅の輪郭を浮かび上がらせることは、そういうことを可視化することになる。豪華客船の旅も悪いとは言わないが、やはり吟行の慎ましい一人旅がいちばん豊かでわたしには合っている。
旅は、日常を超えて未知へ移動すること。旅をすると、大げさに言えば、その数だけ複数の世界観をもつことができるのね。日常を超えるということは、煩わしい制約から解き放たれるということ。その制約が自分が自分であることを歪めていたとすれば、日常を超えて外へ出ることは人間性の回復であるともいえるのね。
旅には「逃避」と「冒険・開拓」の両面があると思う。旅の解放感は、日常が有形無形のものに縛られていることを自覚させてくれる。犯罪を犯すと拘留されるのは、移動の自由を制限することが罰になるという認識がずっとむかしからあったから。人間にとって、旅は本能的な欲求に近いと思うのね。
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