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 上記表題中の《》内のことばは、ネットでたまたま見つけたのね。「!」と思って、全文を読んでみた。筆者は25歳というから、ふだんならまず読むこともない若い人の文章なのよね。結論から言うと、このかたは川柳作家に向いているのでは。川柳も短歌も俳句も、将来的には定型の枠を取っ払ってこのような自由な表現が当たり前になる日が来るのではないかと思っているのだが。このタイトルを目にしてふとそんなことを思ったのね。

今日もまた誰かに見てほしくて、SNSで「生きている」と旗を振る

 「旗を振る」がいいのね。ま、ちょっと長いので、川柳ではなくいちど短歌に仕立ててみましょうか。

誰かに見てほしくて今日も旗を振るSNSで「生きています」と

 SNSとは、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの略で、人と人との交流を助け促進するためのインターネット上のサービスなのね。自分のプロフィールや写真をおなじサービスを利用している会員に公開できるほか、会員同士のメッセージのやり取りなどで交流を深めることができる。おなじ趣味をもっている人などと新たな人間関係を構築する場としても注目されているのね。

 青春の痛みのようなものはだれにでもあるだろうが、読んでみるとこころのやわらかさにあらためて“胸きゅん”となるのね。アナログ世代のわれわれは、たまにはこういう文章を読んで現代というものを知ることも悪くない。若い人のこころに触れてみるのもたいせつなことだろう。このかたの文章が下記。
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SNS歴10年といったところだろうか。10代の半ばからずっとSNSはそばにあった。自分専用の端末を手にした時から、始められるものは片っ端からアカウントを持った。
ガラケー時代からスマホに至る間に廃れて行ったSNSもあるが、この10年でなにかしらのSNSはずっとそばにある。「そばに」というより今ではもはや「中心」に、「SNSありき」になっていることも認めざるを得ない。
 
記録の意味もあるけど、結局「誰かに見てもらうため」が強いSNS


いつからだろうか。

何処かへ出掛けるにしても「映える」所、食事をするにも「可愛い」「変わった」食べ物がある所が良いと思うようになったのは。
羨ましがられるものを「載せなくちゃ」と思うようになったのは。
何かの折には更新をして近況を「報告しなくちゃ」と思うようになったのは。
誰か知人のライフイベントや転機がSNSを見れば「当然書いてある筈」と思うようになったのは。
こんな思考はどこかでおかしいと思いつつも、出掛けた時には必ず写真を撮り、上手く撮れないと何度も撮り直して「帰ったらインスタに載せなくちゃ」と思い、美味しそうな食事や見映えのきれいな食べ物はいただきますの前にひとまず写真を撮る。気分が高まれば、その場でInstagramのストーリーに載せたりする。

奮発して手に入れたものや、気に入ったおしゃれなものも「見て!」と言わんばかりに投稿する。私はまだその経験がないけれども、人生で一度くらいは書くことがあるかもしれない届を書いた記念なんかも、記念と報告を兼ねて写真を撮って載せるかもしれない。

これはあくまで、記録の意味も持っているからするのだという主張も、誰に弁解するわけでもないのだが持ち合わせている。そんな自分に少しだけ呆れながらも、SNSの更新が滞り、記録に残せなくなるのを怖がる自分もいる。
記憶ではなく、記録が、データが失われてしまうのが怖い。では、記録をきちんとしておきたいのだったら、こまめにクラウドなどにバックアップやコピーを取ればいいだけではないか、となると、結局のところ要は誰かに見てもらうためという側面も重要視していることを認めるのだ。

綺麗な思い出を残したい場で、「妬ましさ」を感じてしまうことも…

見てもらって、「いいね!」を押してもらって、私が今を楽しんでいることを知ってもらいたいのだ。充実して、今好んでいるものがあって、それを楽しんでいると思ってほしい。
私はこれらをInstagramのフィード投稿にて行う。そして、それはSNSの「陽」の部分であると思っている。
これは私の持論だが、Instagramのフィード投稿はフォトアルバムのような性質だと考えており、出来るだけ暗い影を落としたくない。醜いものを載せたくない。他人からの「いいね!」というリアクションを期待するのだから当然「いいでしょ?素敵でしょ?」と思っているものを載せている。

フィードの投稿はきれいな思い出だけを残していたい。それは、他のSNSユーザーも同じで、他の人にとっての「いいでしょ?」も載って来るのは当然のことだ。
しかし、今度はそこへ自分にとっては軽率に「いいね!」は押せない、穏やかでいられないような内容だって正直ある。羨ましいと思わされてしまうような。羨ましいどころか、羨ましいを通り越して「妬ましい」とすら感じてしまうような投稿などがある。

それは先にあげた、知人のライフイベントや転機などのことだ。SNS越しに知ることが当然のように思いながらも、やはり軽い衝撃はしっかりと受ける。
しかもそれでいて、SNS上での「報告」をせずに人生が進んでいる知人や同級生のことを珍しく人づてに聞いた時は「SNSに載っていなかったのに!?」だなんて思うから、つくづくSNS中心の生活に侵されてしまっているなとまたも自分に呆れながらも、それでもまだあがり続けてくるかもしれない知人たちの人生の転機の「報告」や、その片鱗を見逃さぬように見張り続ける。

今日もまた、誰かに見てほしくて、私は生存フラッグを振っていく

そうしていると、羨ましい、妬ましいという感情は少なからず心に影を落とす。そんな気持ちを抱えたくないのなら、SNSに張り付くことをしなければ良いのに、SNSそのものは辞められない。
だから、他人の悪口までは行かずとも少なからず己に対して感じた「劣等感」などの瞬間的に感じた感情や感想を吐露する場が欲しくなる。それには私はTwitterのつぶやきかInstagramのストーリーを使う。

これがSNSの「陰」の部分だと思っている。こんな「陰」も「陽」も人間的には間違っている気もする。
しかし、勝手に使い分けているSNSの「陰」も「陽」も、結局のところ他者からの共感がほしいのと、己の存在をアピールしたいのだということが共通してあると思う。
先に述べたように「私は楽しんでいる」と知らせることと同じくSNSにログインをして更新することは「私は、今を生きている。これを好み、いいね!と思ったり、劣等感を感じたりして」という現代に生きるSNS歴10年の20代なりの生存のフラッグなのだと思うのだ。

そして今日もまた、何気ないことも、重要なことも、そこで文字にして写真にして記録に残すためにも、共感を呼ぶためにも、誰かに見てほしくてそのフラッグを振るのだ。

■みのりうめののプロフィール
25歳 独身
物を書くことをしてみたいと思い続けて、思うだけでした。

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