死に方について考えるということは、生き方を考えるということである。生き方は死に方なのである。生き方には多くのかたちがあるだろうが、死に方はその、それぞれの先にある。
自分にもかならず訪れる死のことは、ふだんあまり考えたくない。しかし、現実としていまコロナ禍があり、まったく何が起こるかわからない現代をわれわれは生きている。日本の、急速な人口減少の時代を生きているわれわれは、同時に超高齢社会に突入している。(写真:ガンジス川の朝日)
「さいごは自宅の畳の上で、家族に看取られて死んでゆく」などという理想は過去のこと。一人暮らしのわたしは、ぼんやり自分の終末期を、在宅医療を受けながらがんばれるところまではがんばりたいと思っている。どちらかといえば自然体で生きてきたので、最低限の医療で痛みだけはケアしてもらい、安らかに逝ければそれでいいと思っている。
誰しも他人に迷惑をかけずに死ぬことはできない。家族への思いやりがあればあるほど迷惑をかけたくないと思い、死への覚悟もできているゆえに家からでて病院に入ることを選択するかもしれない。わたしは長く一人で暮らしてきたので、在宅医療はいちばん自分に合った選択だと思っている。
わたしには、十日と一週間と断食の経験が二回ある。その経験からすると、生きることと食べることはおなじ。すなわち、食べたいということは生きたいということだと思うのね。ところが、人間のさいごは食べられなくなる。すると周囲は無理にでも食べさせようとする。この段階で点滴ほかの選択肢が登場するが、これを疑問に思っているのね。
終末期の、もうすぐあの世へ抜けようとしている段階での点滴は、病者いじめの強制的な栄養補給ではないかと。この段階で点滴されることは苦しみでしかない。わたしは親の病院でのさいごをみて、現代医学の(あえて言えば)非人道を痛感した。死期が近い人間に繰り返される検査。さいごはなにもせずに痛みだけを止め、安らかに寝かせておけないものかと。さいごに肉体的な苦痛を与えてどうするのか。
断食の経験から、じつは断食は爽快なものだといえるのね。食べないことを恐れすぎているのが現代人なのである。断食をすると、エネルギーは心臓、肺、腎臓など重要臓器に回され、直接生きることに関与しない臓器(筋肉や脳)への配分は最小限度に抑えられるという。そのため断食中はよく眠れ、また水はしっかり飲むから不要な(余分な)ものは排泄されて爽快になるしかないのである。
死を控えて煽られる不安は、脳が創造した想像の産物(幻想)だという。その脳機能が強制終了されるから、不安を感じないのかもしれない。つまり、人間は、さいごは(点滴含め)栄養を摂らないほうが楽だということ。自然の摂理とは、こういうところまで行き届いているのである。
在宅医療の適用は、原則、歩いて通院できない人が対象になる。在宅医療では、医療者(医師、看護師など)が訪問し、自宅を病室とするということ。それでも容体が急変すれば救急搬送となり、その結果希望しない医療措置がなされてしまうこともあるだろう。延命処置については、希望するかしないか、その表明を元気なうちに行っておく必要がある。基本的に延命処置は要らないが、苦しみをとる措置は最大限行うなどの「尊厳死宣言書」というものがあるようだが、わたしもそれを頼みたいと思っている。
生き方は死に方でもある。生きているうちは生きがいをもって笑顔で暮らしたい。まずはおいしく食べられていることに感謝して過ごしたいものだと思う。
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