見たことのある燃え尽きた縄である 荻原 鹿声
〈燃え尽き症候群〉とは、一定の生き方や関心に対して献身的に努力した人が、思うような結果が得られなかったことでもつ徒労感。努力の結果、目標を達成したあとに生じる虚脱感を指すこともある。絶え間ないストレスの持続により意欲をなくしてしまう症状であり、心因性のウツとも言われるようだ。
この句は、誰かを「燃え尽きた縄」に喩えている。「燃え尽きた」ということから、もうこの世にはいない人なのかもしれない。「見たことのある」とは、過去におなじような人を知っていると。「燃え尽きた縄」の質感・触感を考えると、触っただけでぼろぼろと毀れて灰になってしまうような脆さ、人であれば野ざらしの屍(しかばね)。やっと形だけは保っている、そういう人がいると。
現代社会を生きる苦しみを切り取った句。「縄」の長さに、じりじりと燃え尽きるまでの経過を詠み込んでいるようだ。
大きな夕焼に舌なめずりされる 今野 空白
「舌なめずり」とは、美味しそうな飲食物を前にしたときなどに、舌をだして唇をなめまわす行為のこと。転じて、欲するものや獲物を虎視眈眈(こしたんたん)と待ち構えることにも使われる。
この句、「大きな夕焼」とは、いまにも沈みそうな真紅の夕焼け。作者はこの夕焼けにいまにも攫(さら)われそうな不安を感じているのだ。そういう気持ちにさせるのは自身の老化か、あるいは病気かもしれない。生きとし生けるもの、いつかは直面する心象的場景。
逝かせるな 手繰れ 陽はまだそこにいる 高鶴 礼子
この句の「陽」も、前句とおなじ水平線に落ちてゆく赤い夕陽。夕陽に引っ張っていかれそうな誰かを、必死にこの世に留めたい気持ちがでている。あらゆる手段を尽くしても、なんとか生きていてさえくれればと思う大切な人が、いまこの世を去ろうとしている。
「(陽は)いる」とあえて擬人化、あの世へ引っ張っている「陽」がまだ「そこに」消え残っていると。叫ぶように、絞りだすように、作者の「(此岸(しがん)へ)手繰(たぐ)れ」の声。手繰るとは手もとへ引きよせること。「陽」はまだそこに「いる」のだからと。
何もない水平線を描いただけ 塩見 草映
作者は、画布かノートに真横に一(いち)、すなわち一本の線を引いたのである。それを見ていた人が、その線は何なのかと訊ねた。それへの答えが、「水平線を描いただけ」。
中国における〈無〉の思想の萌芽は『老子』とか。『老子』の〈無〉は、〈有〉に対する単純な否定の意味とともに〈有〉の意味をあわせもっていた。だから〈有〉が〈無〉から生まれるともいえた。通俗的な有無の対立を超えた〈無〉を想定してはいるが、現実存在を完全に否定しきったところに得られるような形式概念には至っていない。
〈無〉は王弼(おうひつ)によって整理展開された。万物を存在づける究極的原因であり、また雑多な差別を統一づける普遍的原理として、その究極的な根源性を明確にした。
王弼は「万物は万形であるが、その中心は一である。何によって一になるかといえば、それは〈無〉によってである」という。〈無〉の境地とは自然と一体になること、すなわち自他の境界をなくすこと。
この句、禅問答に似ている。
Loading...




















































あきこさん、こんにちは。
7月号の難解句鑑賞、改めて読ませてもらいました。
今月の難解句は構えの大きな真っ向勝負の句揃いで、対するあきこさんの鑑賞も、堂々たる横綱相撲の印象です。「燃え尽きた縄」「舌なめずり」「陽はまだそこにいる」が人間存在の根源的な喩になっており、現代社会との関わりを見事に切り取っている。
あきこさんの鑑賞から、短詩型文芸である川柳の最大の武器は喩であり、喩の力で、たとえば無限の字数を尽くせる小説にも対抗できるのだと改めて痛感しました。
また、郷土の先輩、草映さんの「禅問答に似ている」句には感動。松山の大会でお見かけする、長身で背筋のピンと伸びた、周囲から超然と屹立している古木のような風格を思い浮かべ、なおさら句の深さに感じ入りました。
なお蛇足ですが、川柳マガジン8月号の難解句鑑賞に初めて投句してみました。
越智学哲さま
>短詩型文芸である川柳の最大の武器は喩
その通りです。
句を見ても、文面からも、短期間に川柳という文芸を掴まれたと思います。
学哲さんのこれからに期待させていただきたいと思います。
>川柳マガジン8月号の難解句鑑賞に初めて投句
わたしの鑑賞は8月号が最終回、つぎの担当者が読み解いてくださるでしょう。