一般に芸道をものにするには、「我(が)」を捨てよ、ということをよく言われる。「我」が強い人は他人の忠告を聞かないから、少しも変われず成長もない。「我」を捨てて他人の言うことを聞いてみると、自分の気づいていないことに気づき、こころが変化し成長していく。「我」が強くなくこころがやわらかい、それでいて誰かの言いなりになるというのではないことが大切。独善的になりがちな自分中心の眼で見ないで、権威(指導者)に盲従することもなく、主体的に判断するというスタンスがもっともよい。
基準をつくりたがる指導者は、押し付け、かつ縛りたがる傾向があるような気がする。どのようなことも押し付けてはならない。たとえ六大家のことばだとしても、自分にも他人にも強制してはいけない。強制すれば、強制しているそのことがすでに指導者の「我」を押し付けていることになる。押し付けがましくなく「こういう考え方もありますよ」と言うだけでよい。とにかく強制はいけない。
助言は、それで相手が納得できるようであればすればよい。しかし、助言されるほうがこれに縛られ窮屈になってもいけない。すべては自身で考え、乗り越えていくべきなのである。具体的な内容をもった強制のことばは、相手にとってはうっとうしいだけの忠告になることがある。とくに自分の信念・人生観などに固執して、その基準で作品の内容を裁かないことだ。
川柳の指導者の中に、誠実なこころがあるわけではなく、自身の地位・収入の継続や組織の拡大、とりまきの数を増やす意図だけで動いている方がいる。そういう指導者は、大げさに言えば独裁者にほかならず、ただ自分への忠誠心により差別するということもでてくる。そのような指導者は、文芸とははじめから距離がある。近づかないほうがいいかもしれない。学ぶ方も、指導者を仰がねばという呪縛から精神的に自立しなければならない。
指導者への依頼心があると、表現においてもっとも大切な自分のこころを自分で縛ることになる。いつまでも指導者や組織に依存するのはいかがなものか。指導者を外にではなくむしろ自分の中にみつけ、自分のことばを聴くということがあってもいい。指導者に絶対的な信をおいていては自分を見失う。尊敬する師がおられたとしても、いつかは師と同等となり、あるいは師を超えなくてはならないのである。師はいつまでもおられるわけではない。結局、川柳のみならずどの道であっても自分が乗り越えていかねばならないのだ。
師に頼る気持ちも呪縛のようなもの。それも我執と言えるかもしれない。師からいつまでも独立できないでは、主体的活動が鈍る。もっともよいのは、すぐれた師についていささか指導を受け、やがて師から離れて独自の境地を開いていくこと。それがほんとうの意味で師の恩に報いることなのである。
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