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 新型コロナウイルスのパンデミックによって、国内外が激しく動揺している。刻々と変化する状況とそれを伝える情報に振り回され、いろいろな局面で社会が変容を余儀なくされている。地域や個人が感染拡大防止に努めなくてはならないことは言うまでもない。しかし同時に、“自粛”を余儀なくされている室内で、すこしは立ち止まって冷静に考えることも必要だと思うのだ。

 いま我われはこの状況を同時に共に体験し、いままで当たり前と思われていた日常生活が崩壊するかもしれないという恐怖に直面していると言える。想像して怖ろしいのは、さらなる複合災害だろう。水害や地震という列島が毎年直面する自然災害と、もし新型コロナウイルスが合わさったらと考えると怖ろしい。避難所は感染源になることは間違いないので、それへの対応をどうすればよいのかという問題である。何が起こるか分からないのだから、まさかとの希望的観測だけでやり過ごすことはできない。

 国が国境の壁を高くすることで労働者や移民、難民の流入はある程度抑えられるとしても、同様にウイルスの浸入は阻止できない。感染症は貴賤貧富の差を問わない。国籍や社会階層といった人間が勝手に設けている区別を超えて、我われは一蓮托生の運命共同体だということに気づかねばならない。新型コロナウイルスの災厄は、何らかの歴史の岐路になることは間違いない。

 イギリスは、当初疫学的な集団免疫という考えに立ち、人口の60%、70%がウイルスに感染すれば国民全体に集団免疫がつく、逆に集団免疫をつけなければ感染爆発は収束しない、したがってある程度の感染者や死者の発生は受け入れざるを得ないので過度の社会的隔離は行なわないとする政策を公表した。これには驚いたが、日本でも疫学の専門家が医療崩壊をさけるためには感染拡大のカーブを緩やかにして重症者数を医療のキャパシティー内におさめるしかないという発言をしている。パンデミック収束のための政策として仕方がないことなのかもしれないが、この発想はいかにも命を数量化する非常時の思考として、検査も受けられない罹患者の身になって考えれば非情とも言える。

続きは次回

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