窮鳥懐に入れば猟師も殺さず(きゅうちょうふところにいればりょうしもころさず)
上記のことわざ、逃げ場を失った鳥が自分の懐に飛びこんでくれば、猟師もその鳥を殺しはしない、の意。まして人が困窮して救いを求めてくれば、どのような理由があろうと手をさしのべるのが人の道であるといっている。(このことわざと下記(Wikipedia)とはとくに関係ありません)
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昭和天皇とマッカーサーの会談については、様々な関係者から内容が伝えられている。当事者である昭和天皇は「男の約束」として終生語らなかったが、一方のマッカーサーは多くの関係者に話し、1964年に執筆した『回顧録』でも披露している。それによると昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、おたずねした」[337]と発言したとあり、それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる[338]。
ー中略ー
有名なフォービアン・バワーズ少佐も、マッカーサーから聞いた話として「巣鴨刑務所にいる人にかわり、私の命を奪ってください。彼等の戦争中の行為は私の名においてなされた。責任は私にある。彼らを罰しないでほしい。私を罰してください」と昭和天皇が語ったと証言している[344]。極東国際軍事裁判の首席検事ジョセフ・キーナンは田中隆吉元少将に「マッカーサー元帥に面会した際、元帥はこう言った。自分は昨年9月末に日本の天皇に面会した。天皇はこの戦争は私の命令で行ったものであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたいと言った。もし天皇を裁判に付せば、裁判の法廷で天皇はそのように主張するであろう。そうなれば、この裁判は成立しなくなるから、日本の天皇は裁判に出廷させてはならぬ。私は元帥の言もあり、日本にきてからあらゆる方法で天皇のことを調査したが、天皇は平和主義者であることが明らかとなった。……私としては、天皇を無罪にしたい。貴君もそのように努力してほしい」と言ったとされる[345]。
1955年8月に渡米した当時の外務大臣重光葵はアメリカでマッカーサーと会談したが、その席でのマッカーサーの発言として、「陛下はまず戦争責在の開題を自ら持ち出され、次のようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。すなわち「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について、貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分にとって問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい」これが陛下のお言葉でした。私はこれを聞いて興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで証言台に上ることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」という話があったと語っている[346]。
重光は渡米前に那須御用邸で昭和天皇に拝謁したが、その際に昭和天皇は「もし、マッカーサー元帥と会合の機もあらば、自分は米国人との友情を忘れた事はない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝してその健康を祈っている」と伝えてほしいと重光に依頼している。マッカーサーは昭和天皇からの伝言を聞くと「私は日本天皇の御伝言を他のなによりも喜ぶものである。私は陛下に御出会いして以来戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである。それにもかかわらず陛下のなされたことは未だかつて十分に世に知られて居らぬ。十年前平和再来以来欧州のことが常に書き立てられて陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正当に書かれる場合には天皇陛下こそ新日本の産みの親であるといって崇められることになると信じます」と述べている[347]。
ー中略ー
いずれにしても、昭和天皇との第1回会談の後に、マッカーサーの天皇への敬愛の情は深まったようで、通訳の奥村勝蔵によれば第1回会談の際には天皇を「You」と呼び、奥村に通訳を求める時も「Tell The Emperor(天皇に告げよ)」と高圧的だったが、その後は天皇を呼ぶときは「Your Majesty(陛下)」と尊厳を込めて呼ぶようになったと証言している[354]。
そしてマッカーサーは、1946年1月25日に陸軍省宛てに天皇に関する長文の極秘電文を打ったが、その内容は「天皇を戦犯として告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるであろう。その結果もたらされる混乱を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば日本国家は分解する」「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地帯や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するといった希望はことごとく消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるであろう」「これらの事態が勃発した場合、100万人の軍隊が半永久的に駐留し続けなければならない」とワシントンを脅す内容で、アメリカ政府内での天皇の戦犯問題は、この電文により不問との方針で大方の合意が形成された。救われたのは昭和天皇ばかりでなく、天皇なしでは平穏無事な占領統治は不可能だったマッカーサーも救われたことになり、この会談の意義は極めて大きかったといえる[355]。(Wikipedia)
続きは次回
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昭和天皇とマッカーサーの会談については、様々な関係者から内容が伝えられている。当事者である昭和天皇は「男の約束」として終生語らなかったが、一方のマッカーサーは多くの関係者に話し、1964年に執筆した『回顧録』でも披露している。それによると昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、おたずねした」[337]と発言したとあり、それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる[338]。
ー中略ー
有名なフォービアン・バワーズ少佐も、マッカーサーから聞いた話として「巣鴨刑務所にいる人にかわり、私の命を奪ってください。彼等の戦争中の行為は私の名においてなされた。責任は私にある。彼らを罰しないでほしい。私を罰してください」と昭和天皇が語ったと証言している[344]。極東国際軍事裁判の首席検事ジョセフ・キーナンは田中隆吉元少将に「マッカーサー元帥に面会した際、元帥はこう言った。自分は昨年9月末に日本の天皇に面会した。天皇はこの戦争は私の命令で行ったものであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたいと言った。もし天皇を裁判に付せば、裁判の法廷で天皇はそのように主張するであろう。そうなれば、この裁判は成立しなくなるから、日本の天皇は裁判に出廷させてはならぬ。私は元帥の言もあり、日本にきてからあらゆる方法で天皇のことを調査したが、天皇は平和主義者であることが明らかとなった。……私としては、天皇を無罪にしたい。貴君もそのように努力してほしい」と言ったとされる[345]。
1955年8月に渡米した当時の外務大臣重光葵はアメリカでマッカーサーと会談したが、その席でのマッカーサーの発言として、「陛下はまず戦争責在の開題を自ら持ち出され、次のようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。すなわち「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について、貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分にとって問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい」これが陛下のお言葉でした。私はこれを聞いて興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで証言台に上ることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」という話があったと語っている[346]。
重光は渡米前に那須御用邸で昭和天皇に拝謁したが、その際に昭和天皇は「もし、マッカーサー元帥と会合の機もあらば、自分は米国人との友情を忘れた事はない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝してその健康を祈っている」と伝えてほしいと重光に依頼している。マッカーサーは昭和天皇からの伝言を聞くと「私は日本天皇の御伝言を他のなによりも喜ぶものである。私は陛下に御出会いして以来戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである。それにもかかわらず陛下のなされたことは未だかつて十分に世に知られて居らぬ。十年前平和再来以来欧州のことが常に書き立てられて陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正当に書かれる場合には天皇陛下こそ新日本の産みの親であるといって崇められることになると信じます」と述べている[347]。
ー中略ー
いずれにしても、昭和天皇との第1回会談の後に、マッカーサーの天皇への敬愛の情は深まったようで、通訳の奥村勝蔵によれば第1回会談の際には天皇を「You」と呼び、奥村に通訳を求める時も「Tell The Emperor(天皇に告げよ)」と高圧的だったが、その後は天皇を呼ぶときは「Your Majesty(陛下)」と尊厳を込めて呼ぶようになったと証言している[354]。
そしてマッカーサーは、1946年1月25日に陸軍省宛てに天皇に関する長文の極秘電文を打ったが、その内容は「天皇を戦犯として告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるであろう。その結果もたらされる混乱を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば日本国家は分解する」「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地帯や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するといった希望はことごとく消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるであろう」「これらの事態が勃発した場合、100万人の軍隊が半永久的に駐留し続けなければならない」とワシントンを脅す内容で、アメリカ政府内での天皇の戦犯問題は、この電文により不問との方針で大方の合意が形成された。救われたのは昭和天皇ばかりでなく、天皇なしでは平穏無事な占領統治は不可能だったマッカーサーも救われたことになり、この会談の意義は極めて大きかったといえる[355]。(Wikipedia)
続きは次回
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