最近はそうでもないが、必要でないものをつい買ってしまうことがある。巧妙な広告がことさら欲望を煽りたて、消費行動へ向かわせる。もう長く、わたしたちはそれでしあわせになれると信じ、便利で快適な生活を求め続けてきた。十分豊かになったいまも、他人と比較して不足しているものを手に入れようとする。それははたして自身から生じた欲求、願いなのだろうか。手に入れたいと思わされているのであれば、それはほんとうの願いとはいえない。そんなものに支配され振り回されていることほど空しいことはないのである。(写真:マリア・カラス)
親鸞聖人が、生涯を通して最も戒めたのは〈空過(くうか)〉ということだったという。かけがえのない日々をムダに過ごしてしまう生き方。〈空過〉の反対を〈勝過(しょうか)〉と言うらしいが、こちらは与えられた日々を精いっぱい生きるという生き方である。
生きるとは、結局「今、今」のこと。〈詠う〉は〈歌う〉に通じるが、歌を歌うことはただ声を出すだけではなく、そこにいる人々と時間を共有し、関係性を結ぶことだと思うのね。歌うひと聴くひとどちらかのこころが閉じてしまっていれば、その音楽はひろがっていかない。
ただ自身のこころに従って、自身のたましいのつぶやきのままに歌う。それが、周りをも巻き込むのね。ただ歌うことが気持ちよくしあわせだというその喜びだけが伝わる。のびやかでとらわれるもののない歌。なにを歌っているのかわからなくても、音のうねり波の中にいるだけで、こころが高揚する。歌に包み込まれ、歌で繋がる。歌がひとを繋ぐのね。相手のことをなにも知らなくても、一瞬でわたしたちは繋がることができる。
ありのままの姿で、自身のほんとうの願いや光だけでかがやきたい。伝えたいとかどう伝えようとか、そんなことよりただたましいのつぶやきのままに表現すること。それが他人のこころをもふるわせるのね。余計なものをまとっていない(だから、川柳でも推敲で削り落とす)、そのひとそのものが伝わること。表現するとはそういうこと。生きるとはそういうこと。それ以上のものはこの世にない。自分はこのかたちだと思うその方法で自身のたましいが表現したいと思うそのままを表す。わたしにとっては、それが川柳なのね。あふれるまま、ほとんどほかのことはなにも考えずに詠み続けているのです。
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あきこさん この文章を読んでコメントせずにはいられませんでした。
川柳に対する思いがひしひしと感じられました。
ありのまま今を詠むための熱心さ。推敲の大切さを改めて感じさせられました。これからも元気で頑張ってくださいね。
加代さま
お久しぶり~。
コメント、ありがとうございます。
何を書こうか、毎日考えるのがたいへん(笑)。
で、いつも題だけ先に出して。(たまに叱られるのね)
このことを書くのじゃ~(↽ナニコレ)という、絶体絶命状態?の崖っぷちに自分を追い込むのね。
それから考えていくのね、内容を。
この先どういうことを書いたらいいか、いい案があれば、教えて(ちょっぴり弱っている?あきこ)。
もうブログも二千百九十三回。