風景の原義は風光、景そのものではなく〈風と光の織りなすもの〉という意味があるらしい。風景もそれを鑑賞するにはある程度の知識を得ていることが前提、鑑賞者それぞれの主観性をもつといえるだろう。風景ということばは景観ということばに比べるとやわらかいひびきがある。こころに内在する風景を原風景とすることは、いろいろな文芸作品においてもしばしば目にする。
自然や人工物の一部を風景ととらえ美的感性によって観察。そのような鑑賞を背景に短歌や俳句などの文芸もうまれたといえる。〈人間を詠む〉文芸である川柳も、そこに加えられてよい。風景とは自然と人間との間につくられる関係であり、そこに固有の意味を与えて表現者の思想をあらわすものなのだから。すぐれた自然景観、そのもとで文学(文芸)ほかの芸術作品などとしての結晶が認められるような場所が、まず著名な景観地として文化的存在になっているのである。
歩き回るほどに見えてくるものがあると思うのは、その地になんども立ってこそ、先人の想いにも近づける(ように思える)から。資料を読むことで知識も深めながら、繰りかえし日をおいて立つことにより、より近づける。自ずからことばが身のうちを迸りでる。それを十七音に定着させてゆくことが、吟行。高野山吟行も次回は三度目、9月19日(と翌日)。(写真:先日宿泊の持明院にて)
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