前回行けなかったところ、気になっているところはまず真別処 円通律寺。調べると山中の一本道をたどるということで、無事に行って帰れるか、少々心もとない。たぶん誰にも会わず、熊谷寺の横を南に600メートル、木立の中を通って歩いていくことになるのだろう。いまでも女人禁制。門前にたどり着いたところで、中には入れない。
ネットで見ると少し離れた山中には立て看板があり、クマがでるようなのも、あまりうれしくない。(やめとこうかな…。(↽弱気))
前の龍神温泉吟行のときはバスがくるまでの時間がかなりあったので、なんとなく思い切って曼荼羅の滝まで登ったのだが。山中の一人歩きの心細さが身に沁みた。雨後の落ち葉にすべって足を踏みはずす危険もあった。先日友人とのお茶で、「山は一人で入るものじゃないのよ」と言われたのだが、やはりそういうことだろう。
しかし吟行というのは、こういう場所にこそそそられるものがあるのである。下記は、『高野聖(こうやひじり)』(五来重)から。この地に吟行したいあきこの思いが分かっていただけると思う。
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高野山の魅力は老杉巨木のそそりたつ自然的景観と、大伽藍や宿坊寺院や奥之院墓石群の宗教的建造物がよく調和して、中世的な霊場の一典型を現代にのこしている点にある。ここでは一木一石がすべて歴史であり、その懐古的ロマンチシズムと、そこはかとなくただよう神秘感と救済感は、現代につかれた人々に心のやすらぎをあたえてくれる。
しかしながら、高野山の歴史はあの広大な墓原が象徴するように、死者の歴史であって、全山に中世的な幽暗がたちこめている。虚子が、
炎天の空うつくしや高野山
の句碑をのこした高野の空は底ぬけに澄み、老杉の緑はしたたるばかりに濃いが、その下には幽鬼のただようような、陰鬱な、かびくささがただよって、奥之院墓原をあゆむ人は、かるい戦慄をおぼえるにちがいない。
この山の、くらい、しめった雰囲気は、けっして紀伊山地のたかい湿度からくるのではなく、祖霊と死霊のこもりいます日本の霊場に固有のものである。しかし人間はふしぎなことに、このような霊場の、人界から隔離された幽暗な森林や渓谷にただよう、mysterium tremendum(身ぶるいするような神秘)にひたるために霊場をおとずれる。高野山はまさにそのような霊場の典型であって、この戦慄は宗教そのものの生理的体験であり、そのかびくささは中世の体臭である。高野山の、あのたまらなく、にげだしたくなるような陰鬱さこそ、高野山の魅力の正体であって、これをうしなったとき、霊場高野の存在価値は消滅する。
ところで高野の幽暗な神秘感は、その自然環境や宗教的建造物によってだけおこるのでなくて、たぶんに中世の隠遁者のイメージが作用している。西行や維盛、有王丸や滝口入道、あるいは苅萱道心、斎所聖、荒五郎や三人法師、「さいき」などの隠者文学と懺悔文学は、女人禁制の霊場にふさわしくない、なまめいた色彩をそえるとともに、哀感にみちた高野の印象をつくりあげた。人が女人堂や苅萱堂の前で足をとめ、ふしぎな感動にうたれるのは、この文学のせいなのである。
ところで中世文学の白眉である『平家物語』の成立にも、密接な関係のあるこの隠者文学は、ひとえに高野聖の唱導の産物であることが知られている。したがって高野聖をのぞいて高野を語ることはできないのに、高野聖について知られるところが、あまりにすくないのはふしぎである。わたくしは本書で、そのわすれられた高野聖の歴史を語ろうとするが、いまその史料や遺跡や遺物をさがしもとめることは、ほとんど不可能にちかい。これは、高野聖が高野の宗教よりは生活をつかさどるものであり、勧化(信仰をすすめて金品をあつめる)、唱導(宗教的説話の説教)、宿坊、納骨等によって高野山の台所をささえる階級であったので、俗悪な下僧といやしめられ、近世初期以降消滅していったためである。しかし高野聖が消滅してしまった現代でも、宿坊と納骨が高野山の台所をささえているのは、いささか皮肉というほかはない。
古代末期から高野山は納骨の霊場として知られ、近世には「日本総菩提所」の名で、宗派にかかわらぬ納骨がおこなわれてきた。いまでも年々おとずれる数十万の参詣者の大部分が、納骨か、これにかわる塔婆供養を目的としている。奥之院墓原の墓石群はこの納骨の成果であるが、唱導によって納骨参詣を誘引し、廻国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈にいれて高野へはこんだのが高野聖であった。
また納骨と供養のために高野詣をする人や、霊場の景観とその霊気をあじわう人のために、宿坊を提供したのも高野聖であった。高野山独特の宿坊建築と精進料理は、この要求にこたえるために発達したもので、これまた高野聖の遺産といえる。現代の高野山に甍をならべる五十余か院の宿坊はほとんど学侶方と行人方の寺院であるが、もとは聖方の院坊を合併することによって、勧進圏と宿坊権を獲得したものである。
このように隠者文学と宿坊と納骨と、奥之院墓原をのこした高野聖ではあるが、もはやその遺跡はほとんどのこっていない。初期の高野聖が開祖とあおいだ小田原聖教懐の遺跡も、高野山のメイン・ストリートに小田原通りの名をのこすだけで、寺も墓も碑もあとかたもない。また中期の高野聖が「御庵室」あるいは「主君寺」とよんで偶像視した、蓮花三昧院の明遍僧都(空阿弥陀仏)の墓でさえ、知る人はほとんどないのが現状である。蓮花谷に明遍通りの名はのこっているけれども、そのあとかたもなくて民家がひしめきあうだけである。そしてこの谷のいちばん奥に、雑草のあいだをわけて、明遍のわすれられた墓をさがしあてられる人はよほど幸運であろう。
わたくしが高野聖に関心をもったきっかけは、秋草をふみわけてこの明遍の墓をさがしあてたとき、これが『一言芳談』に、
出家遁世の本意は、道のほとり野辺の間にて死せんことを期したりしぞかし
という、有名な法語をのこした明遍に、きわめてふさわしい墓のたたずまいであることに、感動したからであった。
そしてこの墓の横を、一条の山道が小さな峠をこえて、新別所(真別所)とよばれる別の谷筋に通じている。この谷こそ高野聖のなかから出て、鎌倉時代の東大寺再興の大勧進聖人となった俊乗房重源の新別所、すなわち専修往生院の跡である。しかしここにも高野聖の痕跡はすこしもなくて、現在は真言律をまもる円通律寺(円通寺)が、ひっそりと擂鉢形の谷底に、永遠の静寂をたたえているだけである。
重源が十二世紀にこの谷に新別所をいとなんだときは、二十四人の道心ある高野聖が蓮社友(念仏結衆)をつくって、谷をとよもす高声の不断念仏を、昼夜つづけていたのである。ここの結衆は高野隠遁の有名人をあつめて高野聖の範とされていたが、いまその墓は一基もなく、もとより念仏堂もない。それでも最近とくに近代化してゆく高野山のなかで、いまだに中世的なたたずまいをくずさない唯一の浄域といえよう。わずか二キロの山道にへだてられたために、おとずれる人もほとんどなく、夏は巨大な娑羅の白い花が閑寂な庭一面に散り敷き、花にあつまる虻の羽音と筧の水音だけがきこえる。ここには、遠いむかしの高野聖をしのぶ雰囲気が、まだのこっているということができよう。
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