高野山・奥の院に司馬遼太郎の文学碑があるらしい。刻まれているのは『歴史の舞台 文明のさまざま』所収の「高野山管見」の一部。
‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥
高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。 山上はふしぎなほどに平坦である。そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院(しいん)などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀(ねりべい)をつらねている。枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃(ゆうすい)な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。さらには林間に苔むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥ノ院に、僧空海がいまも生けるひととして四時(しいじ)、勤仕(ごんじ)されている。 その大道の出発点には、唐代の都城(とじょう)の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。大門のむこうは天である。山なみがひくくたたなずき、四季四時の虚空がひどく大きい。大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空(くう)に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙(とひ)のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。 司馬遼太郎
‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥
密教は釈迦の思想を包摂はしているが、他の仏教のように釈迦を教祖とすることはなかった。大日という宇宙の原理に人間のかたちをあたえ、それを教祖としている。空海は四十三歳のとき朝廷に高野山を拝領することを乞い、壮麗な堂塔伽藍を営んだ。
宇宙に実在するあらゆるものが一つの真理のあらわれであるとし、形而上化してその純粋性に宗教的な威をもたせ、それをもって密教の諸仏諸菩薩諸天とした。人間が生体のまま真理化しうるというのが即身成仏。
空海は人間とか人類というものに共通する原理を知った。会得した原理には、王も民もなかった。天皇といえどもとくに尊ぶ気にもなれず、まして天皇をとりまく朝廷などという拵えものには、それを懼れねばならぬと自分に言いきかす気持ちさえおこらなかったようだ。 歴史上の人物としての空海の印象の特異さは、民族社会的な存在でなく、人類的な存在だったということがいえるのではないか。
6月3日から二日間の 高野山吟行は、そうした空海の影に影を重ねながら、密教というもののもつ空気にあらためて触れてみたいと思っている。
Loading...















































