司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の中の竜馬の「名言」。小説だから史実でなければいけないというわけではない。しかし、少なからぬ日本人にとって司馬遼太郎作品は“歴史教科書”化してしまっている。「名言」を川柳作家の眼でみるとあちこちに「?」が付くのである。ホンモノとニセモノの違い、ということだろうか。繰り返し読めば小説の中で創りあげた「名言」のわざとらしさを感じる。
吟行では、遺された資料(史実)しか見ない。すべての先入観をしりぞけ、かつての龍馬の生活圏を歩き、五感に触れてくるものだけを詠む。その地に立ってみないと分からないことがある。そのための吟行。川柳でどこまで〈実在した〉龍馬に迫れるだろうか。
『竜馬がゆく』ではいままでにも史実ではないフィクションがいくつも指摘されている。下記は、一例。
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「海援隊」について
『竜馬がゆく』における海援隊は、海上討幕会社であるとして、龍馬を商売人の革命家という風に強調。しかし、史実の海援隊は、海軍兵学校という側面をもつ。藩士たちがここで海軍兵としての基礎を学んだのである。(江田島旧海軍兵学校(第一術科学校)の資料館(教育参考館)に龍馬の写真ほかが遺されている)
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面白くフィクションをちりばめ、時代に合ったストーリー展開をしなければ読者の心をつかめない小説。川柳という自他をあばく文芸と対峙しているせいか、〈つくられた〉コトバには敏い。(当然のことだろうが)自筆の手紙など、史実として遺されている龍馬のコトバの方にはるかに響いてくるものがある。下記はご参考まで。
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『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)より
人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。
万事、見にゃわからん。
俺は議論はしない、議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ。
奇策とは百に一つも用うべきではない。九十九まで正攻法で押し、あとの一つで奇策を用いれば、みごとに効く。奇策とはそういう種類のものである。
夢中で日を過ごしておれば、いつかはわかる時が来る。
人生は一場の芝居だというが、芝居と違う点が大きくある。芝居の役者の場合は、舞台は他人が作ってくれる。なまの人生は、自分で自分のがらに適う舞台をこつこつ作って、そのうえで芝居をするのだ。他人が舞台を作ってくれやせぬ。
わずかに他人より優れているというだけの知恵や知識が、この時勢に何になるか。そういう頼りにならぬものにうぬぼれるだけで、それだけで歴然たる敗北者だ。
人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ。
疲れちょると思案がどうしても滅入る。よう寝足ると猛然と自信がわく。
時勢は利によって動くものだ。議論によっては動かぬ。
人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ。
古来、英雄豪傑とは、老獪と純情の使いわけのうまい男をいうのだ。
暗ければ、民はついて来ぬ。
今は力を培養するときだ。その時機を辛抱できぬのは男ではない。
雨が降ってきたからって走ることはない。走ったって、先も雨だ。
俺は着実に物事を一つずつ築きあげてゆく。現実に合わぬことはやらぬ。
偏見を持つな。相手が幕臣であろうと乞食であろうと、教えを受けるべき人間なら俺は受けるわい。
人間というものは、いかなる場合でも、好きな道、得手の道を捨ててはならんものじゃ。
男子は生あるかぎり、理想をもち、理想に一歩でも近づくべく坂をのぼるべきである。
金よりも大事なものに評判というものがある。世間で大仕事をなすのにこれほど大事なものはない。金なんぞは、評判のあるところに自然と集まってくるさ。
慎重もええが、思いきったところがなきゃいかん。慎重は下僚の美徳じゃ。大胆は大将の美徳じゃ。
おれは落胆するよりも、次の策を考えるほうの人間だ。
人間、好きな道によって世界を切り拓いていく。
世の既成概念を破るというのが、真の仕事である。
人間、不人気では何も出来ませんな。いかに正義を行なおうと、ことごとく悪意にとられ、ついにはみずから事を捨てざるをえなくなります。
何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。
事をなさんとすれば、智と勇と仁を蓄えねばならぬ。
相手を説得する場合、激しい言葉をつかってはならぬ。結局は恨まれるだけで物事が成就できない。
いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。
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