「川柳塔なら 篝火」6月号に掲載の一文を転載。
つい先日。珍しく風邪を引き込んで苦しかったが、夕方から瓦版校正会があるので大阪市中央公会堂まで。ヨロヨロと辿り着いたが、校正作業に入ってすぐ、あまりの体調の悪さに作業を諦める。「咲くやこの花賞」への出句ハガキを清記のため受け取って、早退。
地下鉄淀屋橋駅から難波、南海電車と乗り継いで、車内ではうつらうつら。目覚めるとなんと りんくうタウン駅。一つ手前の泉佐野駅で降りて和歌山市行きに乗り換えなければならないところ。仕方がないのでそのまま乗車。ゴォーッという海風を聞きながら鉄橋を渡る。関西空港駅まで。
同じ電車の発車を待つ間、○○人らしいグループの大声を聞いていた。どこに行っても昨今は○○人観光客でいっぱい。エネルギーに満ち溢れた民族だなあと思うこと頻り。日本人のような細やかな神経は持ち合わせていないのか、挙措が荒っぽい。公共物を痛めているのではないかと正視もできない。これでは素木造りの神社など、繊細な日本の建築物に触れても分かっていただけるかどうか。
再びゴォーッという海風を聞きながら泉佐野駅まで戻る。両扉が開いて下車、すぐ向かい側ホームから和歌山市行きに乗り換えることができた。
川柳行脚で各地を訪れていると、精彩のない街並みに日本はこれからどこへ行くのかと思うことがある。文芸ひとつとっても、繊細で豊かな日本語がどんどん死語になってゆく。一般に使われる日本語の語彙が少ない。荒涼たる景が文芸の分野にもかいま見える。
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