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12日(月) ゴルフ組4人、観光組3人に分かれて行動。ゴルフ組は朝6:30にホテル出発。雨が降ってもレインコートを着てやるのだという。ご苦労さん!
ホテルのレストランは7時にしかオープンしない。我々観光組も時間的に窮屈なので、食べずに6:40に私の車で出発。長崎自動車道のSAにて軽く朝食を摂って、佐世保から長崎港まで、約1時間半。
目的地は、ネットで予約していた『軍艦島上陸コース』。昨年の春から上陸できるようになったが、島が外洋にあるため、波が荒いときは外周コースに変更になる。上陸できるかどうかは、島まで行ってみないと分からない。
あいにくの雨であったが、幸いにも上陸できるとのこと。但し、見学コースが狭くて傘は危険なためダメ。全員雨具着用。持参していない人の為に、船員がポケット・レインコートを売っていた。

写真左から、軍艦島全景。高層アパート群。この2枚いずれも船から撮影。
3枚目の写真は、1916年(大正5年)に鉱員社宅として建造された、日本最初の高層アパート。右端の写真の橋脚のように見えるのは、石炭を運んだコンベアーの支柱。
写真、いずれも少しかすんでいるのは、私の腕のせいではなく、小雨で靄っていたせい。

(以下は、案内HPよりのコピー)

「軍艦島」とは、長崎港から南西約19kmの海上に浮かぶ孤島「端島」の通称である。

1890年(明治23年)から三菱の経営によって主として八幡製鉄所に向け製鉄用原料炭を供給し、日本の近代化を支えてきた海底炭坑の島である。

当初、この島は、草木のない水成岩の瀬にすぎなかったが、採掘技術の発達とともに、島の周辺を埋め立てながら護岸堤防の拡張を繰り返し、今日の島の形状となった。

炭坑の開発と並んで従業員のための住宅の建設が盛んに行われ、1916年(大正5年)以降高層鉄筋アパートが、次々に建設された。

最盛期5,000人を超える人口を擁した高層鉄筋アパートが島内に林立して、さながら海の要塞の観を呈し、軍艦の「土佐」に似ているところから「軍艦島」として知られるようになった。

昭和30年代後半から、エネルギー改革の嵐を受け合理化が進み、1974年(昭和49年)1月15日閉山、同年4月20日に無人島となった。

【超高密度人口の島】
炭鉱の開発と同時に、そこで働く人々のための住宅群の建設が盛んに行われました。 大正5年(1950年)以降、当時の日本ではまだ実験的段階であった鉄筋コンクリート構造の高層アパートが次々に建てられてゆきました。 敗戦をはさむほぼ10年間の厳しい時代にさえ、途切れることなく建設が続けられました。 最終的には50棟に近い建築郡が ジャングルジムのように林立し、さながら軍艦のような外観を見せる人工の島を形成しました。 最盛期の昭和30年ごろには、島内の居住者が5,300人を超え、1ヘクタール当たり1,400人を超す、超高密度人口を擁していました。

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