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樋口由紀子さんに依頼していた『平成二十五年』の鑑賞文が、川柳塔3月号に掲載されている。作者には説明し難い自作品を、しっかり分析してくださって大いに納得。
これをご紹介すると自慢たらしくなるのでためらっていた。が、先日、友人からこの鑑賞文のコピーを送ってもらったという人から、「このような作品を目指しています」というお便りと共に1冊注文を頂戴した。
それを読んで、「発刊したことは書き込んだが、内容まではご紹介していない」ことに気がついた。で、遅ればせながらご紹介するのも無意味ではあるまいと判断、由紀子さんの許可を得て敢えてアップする次第。

購入ご希望の方は下記へご連絡ください。送料とも、1冊1000円+80円切手3枚。
「川柳の理論と実践」も一緒に購入の場合は、送料込みでジャスト3000円。
〒鳥取県東伯郡琴浦町徳万597  新家完司 
TEL 0858-52-2414   FAX 0858-52-2449
(もちろん出版元「新葉館出版」でもお求めいただけます。ネット通販もOKです)


  句集鑑賞
      『平成二十五年』
            新家完司著
                樋口由紀子

 新家完司さんの句集『平成二十五年』が予定通りに上梓された。『平成元年』に始まり、五年ごとの刊行、六冊目である。できるようでなかなかできることではない。この偉業にまずは敬意を表したい。

  トイレの戸いちにち何度開けるやら
  ハエタタキ命中しなくなってきた
  黙禱は三十秒が丁度いい
  そろそろと歩いていても歳はとる
  七十年何回爪を切ったやら

 六冊の句集で一貫しているのは独自の見つけである。彼の川柳を読んで気づかされることが多々ある。一体、一日にトイレの戸を何度開けているのかと数えたくなる。ハエタタキが命中しなくなったことも、黙祷の時間も、言われてみれば確かにそうであることをうまく一句にしている。

  ややこしい男もいるが僕の町
  混浴は足湯でさえも恥ずかしい
  飛行機の欠点たまに墜ちること
  退屈に耐えて老人力がつく

 彼は一貫して、日常を詠む。彼は日常の、そして、ある種の、くだらなさ、つまらなさをよく知っている。それだからこそ、それらをひっくるめて、日常が好きで、人が好きなのだろう。しかし、若い頃からそうではなかったような気がする。人のくだらなさやつまらなさを嫌悪した時期をしっかりと通過して、今の彼が存在していると思う。だから、句にまっすぐでは見えない、奥行きが出ている。また、本当の寂しさも知っているから、いくら明るい句を書いても、それだけに終っていない。彼は見かけによらず(失礼)繊細で、まわりがよく見える、気配りの人である。

  タンは塩レバーはタレと決めている
  うぬぼれはボケの始まり辞書を繰る
  ええかっこしいのベンツとロレックス

 正直、まどろっこしくなった箇所はなんぼかある。それはもう完司さんが言わんでもええやんかと思うところでもある。

  飲めるだけ飲んで眠れるだけ眠る
  声の出るうちにいっぱい歌わねば

 「ガンガン」「バタンキュー」。これは新家完司さんのインターネットのブログで繰り返し使われている言葉である。翻訳すると、ビール、焼酎をガンガン飲んで、バタンキューとベッドに倒れこんで寝るという意味である。ストレス社会にあって、これは神業に近い。なんとしあわせで、なんと健康的なと、少々呆れながらも、羨ましくなる。

  おもしろい空だいろいろ降ってくる
  本日は愉快だったと太く書く

 そうか、こういう気持ちで生活しているから「バタンキュー」することができるのかと納得する。言葉は過剰にならずにセーブされているが、「おもしろい空」「太く書く」はさりげないが巧みである。
作者と作品は別だという説がある。しかし、目くらましにあっているかもしれないが、実物の完司さんはそんなに単純な人ではないとわかっているはずなのだが、どうも完司さんの場合は同一化してしまう。これも技だろう。

  こっそりと死んでいくのはむつかしい
  葬式の受付ばかりやらされる
  孤独死は失礼自由死と呼ぼう
  脱ぎ捨てた喪服も黙り込んでいる
  ともだちと決めたら死んでもともだち
  死んだ友みんな頭の中にいる

 「死」もこのように詠む。へんに刹那的にならずに現実的である。完司さんとはときどきメール交換をしている。その、ときどきだが、彼はいつも最後に「達者でいてください」「元気でいてください」と書く。そうそう、この鑑賞文の依頼のときも、そうであった。私は完司さんより十歳も若く、どう見てもひ弱で病弱なタイプではない。どちらかと言うと元気すぎて困られる方で、いつまでも死なないおばあさんになることを心配してくれる人もいるほどである。しかし、そんな私にさえ、彼はそう言ってくれる。ご両親が早死されたせいかもしれないが、彼は死がたえず意識下にある。死を見据えている。彼は知っている人が亡くなることに耐えられないのだ。

  守らねばならない靴の右左
  日本語しか解らないから此処にいる
  まだパワーあるぞと棒を振り回す

 同じものを見ていてもどこか違う、何か違う。彼の句集を読んで、いつも考えることがある。あたりまえのことを書いていて感動することと、あたりまえのことが書いてあるから感動しないことの差異は何なのだろか。心を揺さぶるのは一体、どこに違いがあるのだろうか。それは共感ともちょっと違う。感動するということと共感するはイコールではない。共感したから共鳴したから、感動するのではない。完司さんの川柳には人の妙味がある。

  あきらめたとき美しくなるこの世
  あの世でもずっと地球を見ていたい

 句集の最後におかれた二句である。新家完司さんをもっとも表していると思った。この二句を読んで、小説家の角田光代のエッセイを思い出した。
「人はその人の人生をそうするしかなく、生きている。喪失はほかのもので埋められることではない。人々は喪失を抱えたままで生きている」
人にはそれぞれいろんな空虚、空白を持っている。それが穴になり、心にある。その穴を埋めるためにいろんなことをする。彼は川柳で喪失を書いているのではないが、埋めているものが川柳に表われているのだ。それが新家完司さんの目である。

  いちにちがひらひら東から西へ
  三分も仰げば飽きる青い空
  グー・チョキ・パーどれを出しても負けそうだ

 その目も特別というのではもちろんなく、演出的というのでもない。限りなくナチュラルなのだ。ずっと変わらぬこの味があるから安心して句集を読むことができる。
『平成三十年』も楽しみに待っています。

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   樋口由紀子さんの鑑賞文”にコメントをどうぞ

  1. あきこ on 2013年3月17日 at 12:04 AM :

    あきこでおます。
    さすが樋口由紀子さん。
    完司先生の句を「評する」というのは、めちゃ難しそうなんですよねー。何をどう書けばよいのかと。
    達意の文章で、きちんと「評し」て下さっているんですよねー。
    うらやまし~。

    • 完司 on 2013年3月17日 at 8:07 AM :

      おはようございます。
      そうですね~。鑑賞文、私も何度か書かせていただいていますが、難しいです。
      パーフェクトな句集などありませんから、「この句は外したらよかったのに…」というような句が必ず混じっています。それをどのように批評するか、その塩加減。
      そして、印象に残った句をどのように持ち上げるか、その砂糖加減。それがなかなか難しい。
      まあ、外交政策として、砂糖を多めにしておくのが無難ではありますが…。

  2. 松長進 on 2013年3月17日 at 1:00 PM :

    樋口由紀子さんの鑑賞文、なるほど、そうか、そり通りだとうなづきながら拝見しました。完司先生の句とお人柄がうまく表されていると改めて感服しました。
    14日のブログに耳鳴りのことが書いてありましたね、疲労からだと思いますがくれぐれもご自愛ください。

    • 完司 on 2013年3月17日 at 5:34 PM :

      そうですね。自分では自分の句の良し悪しとか味、というものは把握し難いものです。このように言われると、うなずくところが多々あります。
      14日のブログで書いたのは「海鳴り」です。拙宅から日本海の岸辺まで歩いて10分ほど。1階にいるときや昼間は聞こえません。が、寝室が2階ですので、朝、目覚めたときにゴーゴーと聞こえます。

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