本日、4週間に1度の検診。待合室で週刊新潮をパラパラ読むのが習慣になっている。今日もその調子で何気なく開いて読み出してビックリポン! 文章の最初に橘高薫風先生の句「人の世や嗚呼にはじまる広辞苑」が引用されている。(写真上:スマホだったので写りは悪いが…) 内容は東京オリンピックに向けて「失策続きの準備」の指摘。雑誌などの記事中に「川柳」が挿入されることは稀にあるが、いきなりトップに持って来るのは極めて珍しいのではないか。(この週刊新潮は3月17日号。載っているのは26頁)
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そうですか。 嬉しいことですよね。このようなところでこの川柳が引用されるのは。この文芸にとってもありがたいこと。 ところで。橘高薫風先生に初めてお会いしたのは15年ほど前の県大会。お茶を出す係を仰せつかって待機していたのよね。 その頃は、まだどなたとも知らず。(川柳塔社主幹とも知らなかったのですが) 痩身でお茶を飲んでおられた姿を覚えています。 じつは、たしかうちの亡父と同年齢、同じ病で亡くなられたのです。
はい、ほんとうにビックリ!且つ嬉しいことでした。何よりも喜んだのは、この句が持つ「想い」を理解してくださったこと。そのことによって、今後は事あるごとに誰かによって引用され、語り継がれ、永遠に残ることでしょう。 優れた作品は、誰かがどこかで見ている、そして、いつかは津々浦々まで発信され永遠に刻まれる、という好例です。 先輩たちが遺した秀句を埋もれさせることなく、広く発信してゆくことも、後に続く私たちの重要な責務でしょうね。
人の世や嗚呼ではじまる広辞苑、懐かしい句に出会って感激。薫風さんと言えばもう大分前の話ですが、四万十の大会でお目にかかり、ホテルも懇親会もおまけに川下りもご一緒させてもらった。亡くなられる少し前の事だったように思う。物静かな、ガンジーを思わせるような風貌がが印象に残っている。それに引き替え、ご一緒されていた、西出楓楽さんの元気なのには私どものような田舎者にとってはたじたじであったように思います。あれからもう10年は経ったように思います。
こんばんは~。 薫風先生の思い出、ありがとうございます。先生が亡くなられたのは平成17年の4月で、享年79歳でした。 その少し前の「四万十・川柳大会」でしたら、平成15年のことでしょうね。もう13年前になります。先生は風貌も端正でしたが、性格も同じように端正でした。「元気ある後進に道を譲るべし」と、川柳塔社役員に「75歳定年制」を設けて、自らが率先して身を退かれました。なかなか出来ることではありません。
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そうですか。
嬉しいことですよね。このようなところでこの川柳が引用されるのは。この文芸にとってもありがたいこと。
ところで。橘高薫風先生に初めてお会いしたのは15年ほど前の県大会。お茶を出す係を仰せつかって待機していたのよね。
その頃は、まだどなたとも知らず。(川柳塔社主幹とも知らなかったのですが)
痩身でお茶を飲んでおられた姿を覚えています。
じつは、たしかうちの亡父と同年齢、同じ病で亡くなられたのです。
はい、ほんとうにビックリ!且つ嬉しいことでした。何よりも喜んだのは、この句が持つ「想い」を理解してくださったこと。そのことによって、今後は事あるごとに誰かによって引用され、語り継がれ、永遠に残ることでしょう。
優れた作品は、誰かがどこかで見ている、そして、いつかは津々浦々まで発信され永遠に刻まれる、という好例です。
先輩たちが遺した秀句を埋もれさせることなく、広く発信してゆくことも、後に続く私たちの重要な責務でしょうね。
人の世や嗚呼ではじまる広辞苑、懐かしい句に出会って感激。薫風さんと言えばもう大分前の話ですが、四万十の大会でお目にかかり、ホテルも懇親会もおまけに川下りもご一緒させてもらった。亡くなられる少し前の事だったように思う。物静かな、ガンジーを思わせるような風貌がが印象に残っている。それに引き替え、ご一緒されていた、西出楓楽さんの元気なのには私どものような田舎者にとってはたじたじであったように思います。あれからもう10年は経ったように思います。
こんばんは~。
薫風先生の思い出、ありがとうございます。先生が亡くなられたのは平成17年の4月で、享年79歳でした。
その少し前の「四万十・川柳大会」でしたら、平成15年のことでしょうね。もう13年前になります。先生は風貌も端正でしたが、性格も同じように端正でした。「元気ある後進に道を譲るべし」と、川柳塔社役員に「75歳定年制」を設けて、自らが率先して身を退かれました。なかなか出来ることではありません。