映画『鶴彬 こころの軌跡』。昨年からあちこちで上映会が開かれていたが、遠方のため見る機会がなかった。
鳥取県内では、4月18日(鳥取市)・4月25日(湯梨浜町)そして本日、5月1日は米子文化ホールで上映された。
鳥取市も湯梨浜町も行けなかったので、今日こそは、と思っていたら、午前中に来宅した友人が『9号線が大渋滞!』と言う。
そうか、今日から連休だったのだ。ではJRにしよう、と、思ったが、快晴のドライブを楽しみにしていたので残念でならない。昼頃に来た宅配の運転手に訊くと『いつもより少し多い程度ですよ』というので、では早い目に出発して、と、やっぱり車で出かけた。
映画は予想していたより良かった。強く主張されているイデオロギーはともかく、自らの表現手段を『川柳』と決めた人の覚悟は見習うべきものがある。
また、彬の川柳のみならず、剣花坊や井上信子の句などが出てきて飽きなかった。川柳作家必見である。
以下は、鶴彬(つるあきら)の略歴。(ウィキペディアよりコピー)
・1908年(明治41年)12月(戸籍上は1909年1月1日) 竹細工職人喜多松太郎と、その妻スズ(寿ず)のもとに次男として生まれる。生後すぐ、機屋を営む叔父・喜多弁太郎(喜多郎、徳次郎とも)の養子となる。
・1917年(大正6年) 父死去。母の再婚・上京のため、兄、弟妹らも養子となる。小学校在籍中から、『北国新聞』の子ども欄に短歌・俳句を投稿。
・1921年(大正10年) 尋常小学校卒業。師範学校進学を養父に拒まれ断念、高等科に進学。近所の川柳家、岡田太一(澄水)に川柳の指導をうけ、句作をはじめる。
・1924年(大正13年) ペンネーム「喜多一児」で「北国歌壇」(『北国新聞』)に作品発表。
・1925年(大正14年) 専門学校入学者資格検定試験に合格するも進学かなわず。田中五呂八の指導のもと、川柳雑誌『影像』『氷原』に作品発表。
・1926年(昭和元年) 養父経営の工場が閉鎖。いとこを頼って、大阪で工場労働者として1年はたらき、高松町に帰郷。このころ森田一二の影響をうけて、プロレタリア川柳へと傾斜。『氷原』『影像』など、川柳誌で続々とボイコットの対象となって、発表の場をせばめられる。
・1927年(昭和2年) 上京して、井上剣花坊・井上信子に師事。活動の軸を『川柳人』にシフト。
・1928年(昭和3年) 高松町に帰郷。「高松川柳会」を設立し、プロレタリア川柳を唱導。全日本無産者芸術連盟(ナップ)高松支部結成。高松川柳会への弾圧で喜多一二ら4名検束される。筆名を「山下 秀」、さらに「鶴 彬」と。
・1930年(昭和5年) 徴兵検査で甲種合格、第9師団歩兵第7連隊(金沢)に入隊するが、陸軍記念日の「質問」などにより重営倉に。
・1931年(昭和6年) 『無産青年』所持等により、いわゆる七連隊赤化事件の主犯とされ、治安維持法違反で大阪衛戍監獄に収監、刑期1年8か月。
・1935年(昭和10年)10月 上京。
・1937年(昭和12年) 東京深川の木材通信社に就職。12月作品が反軍的として治安維持法違反で再逮捕、中野区野方署に留置される。
・1938年(昭和13年)8月 野方署で赤痢に罹患。豊多摩病院に入院、死去。
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