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最大震度7。死者6,434人の被害を被った阪神淡路大震災から30年。 その日の朝、ベッドの揺れで目が覚めた(鳥取は震度4)。「地震!何処だ?」とテレビを点けたら、しばらくして、道路に電柱が1本倒れている映像が出てきた。30年前の早朝、強く印象に残っているのはこの横倒しになった電柱。(これぐらいなら大した被害ではないな…)と思っていたら、昼頃から次々と凄惨な映像。テレビの前から動けなくなった。改めて、亡くなられた皆さまのご冥福をお祈り申し上げます。

本日、朝から曇天ときどき小雨。最高気温5℃までしか上がらない寒い日だったが、昼前散歩は傘を持って総合公園外周の農道を歩く。写真上は、絡まった蔓などが枯れた寒々しい中で、これも萎れたカラスウリの赤だけが目立ったいた(写真では見えにくいが…)。〔仕事&歩数〕川柳塔社「愛染帖」選考。6,539歩。

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30年前の記憶”にコメントをどうぞ

  1. 橋倉久美子 on 2025年1月18日 at 9:57 AM :

    当地でも、震度4でした。
    私は珍しく前日から熱が出ていて、今日は休もうかなと思いながらうとうとしていたところに揺れが来ました。
    すぐに布団をかぶって震えていましたが、ずいぶん長かったように思います。
    夫は「うわっ」と言って飛び起き、すぐにラジオをつけていました。
    ここが一番揺れたのではと思いましたが、やがてそうではないとわかって怖くなりました。
    熱があったのですが休むわけにはいかないと思い、出勤しました。
    1年生の担任をしていたのですが、生徒に被害がないことがわかったので
    (お父さんが明石に単身赴任していて連絡がまだ取れないという生徒がいたが、後日無事とわかった)、
    午後は年休を取ってかかりつけの個人病院へ行きました。
    待合室のテレビでは、ずっと神戸を空から撮っている映像が流れ、
    「ライフラインの復旧までには○か月」と繰り返していました。
    ライフラインという言葉を聞いたのはそのときが初めてで、
    復旧までに月単位の時間がかかるというのがどういうことなのか、うまく想像できませんでした。
    間もなく生徒会で募金活動をしようということになったのですが、
    「お母さんが持っていけって」と一万円札を持ってきた生徒がいて驚きました。
    ちなみに我が家の「被害」は食器棚の中で不安定な食器が倒れていたぐらい。
    後で大阪辺りでも震度4だったと聞き、震度4ってずいぶん幅があるんだなと思ったことを覚えています。
    以上が、私が「体験」した阪神大震災です。

  2. 新家完司 on 2025年1月18日 at 11:23 AM :

    私の方の震度4というのは、私が覚えていたのではなく、記事を書くために調べたもので、随分広範囲に震度4と記されていました。やはり震源の大きさによって違うのでしょう。募金に1万円札を持たせた親御さん、純粋な想いだったのでしょうね。ぐっと来ました。

    今日は島根文芸フェスタで、10時過ぎに出発。快晴の山陰道を快走して、先ほど会場の県民会館に着いたところです。

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