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「和歌山のトンネル知事を閉じこめる」と、題名に時事吟を書き込もうとインターネットを開いたら、タウンミーティングに「やらせ」があったとのホットニュースが目に止まって、タイトルを急遽替えた。青森県で9月に開かれた政府の「教育改革タウンミーティング」で内閣府等が教育基本法改正案に賛成の立場で質問するよう参加者に依頼していたと報じる。「まさか」と思うが、ありそうなこととも考える。国民の前で、真偽を正して欲しい。

 ところで、今日は、横浜文芸懇話会(構成団体は、ペンクラブ、史料研究会、歌人会、俳話会、川柳協会、詩人会等)の「第53回市民文学散歩」。正午に「根岸森林公園」に集合して、地蔵王廟(中国人墓地)、山元町からJR石川町駅へ「文学の宝庫」を歩く。定員100名。まだ、10名程度の余裕があります。ぶらりとご参加下さい。会費は、テキスト・保険料共500円。取り上げる人たちは、吉川英治、中村汀女、大野林火、ブラウン・ウェストン他。私は、七代目橘家圓蔵を取り上げる。「明治の子供は強かった」これが実感です。時間がありましたら、最後まで斜め読みして下さい。
 七代目 橘家圓蔵は、明治35年、横浜で生まれた。今の石川町駅近く、フェリス女学院の下の長屋。父も母も茂原の旅籠の子で幼馴染みだった。12人兄弟の末子で名は虎之助。この頃の横浜には、一旗揚げようと諸国の人々が続々と集まり成功者が続出した。虎之助の両親もその一人だった。が、父は虎之助が4歳のときに脳溢血で亡くなった。4歳で死別した父の記憶は、二つ、長屋の前の井戸の所へ行って遊ぶと、「おい、虎を見てやれ、虎を」と叫んでいたこと、もう一つは、今の「港が見える丘公園」の下の水が綺麗で、船が入ってこないから、すぐ上の兄が泳いでいたら、遊泳禁止なので、巡査に捕まり、交番で2人並んでべそをかいていると、2人を貰い下げてくれたこと。一方、母は、男で言えばやくざ。心棒が一本ちゃあんと通っていた美人と、山口正二著「聞書き七代目橘家圓蔵」(青蛙房)に圓蔵の言葉で書いてある。父の没後、一家離散する。母は、横浜の尾上町の哥沢の女師匠の所へ弟子兼女中として住み込み、虎之助は小港でチャブ屋をしている姉に引き取られる。チャブ屋には大小あったが、姉の恵比寿屋は8畳2間、4畳半1間の平屋で、虎之助は押し入れの中で寝た。虎之助は、この店から、小学校へ通ったが、夜の遅い商売で、寝るのが遅く早く起きて自分で朝食を作る。遅刻、欠席も少なくなく尋常小学1年を落第する。兄に「そんなに学校がいやなら、奉公にでも行け」と怒鳴られ、「ああ、行くとも」と10歳で奉公に出る。昔の子供は強かった。鍛冶屋、硝子工場、畳屋、貿易商館、小松組と奉公先を転々とする。徴兵検査に合格し、親の承認なくても就職できるようになり、東洋汽船、魚河岸問屋に勤めた後、桂文楽師匠へ弟子入りするが、海千山千の女郎に夢中になって破門され、吉原で雑用をし、名古屋に走ってたいこもち、名古屋にもいられなくなって、大阪で幇間をする。いつも女と金で失敗している。その後、太平洋戦争で幇間の営業が廃止され、41歳で再び上京して寄席に復帰して、二つ目の一番下から高座に戻った。二つ目と言っても、若い連中が応召していていて扱いは前座。這い上がって、昭和21年に二代目の月の家圓鏡で真打となる。淡々とした語り口、地味ではあるが一本筋の通った味のある芸風。「芸が人間を作るのではなくて、人間が芸を作る」と林家三平、月の家圓鏡を筆頭に多くの弟子を育てた。その生涯は、波乱に満ちた、変転きわまりないものであった。昭和55年 肺性心で病院で死亡。享年75歳。妙香寺に眠る。戒名は圓融院法楽日虎居士。

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