昨日21日の、中国新聞のコラム欄、天風禄を読んでいたら、天気図が新聞紙面から消えた時代があったと書いてあった。それは真珠湾攻撃と同時に軍が気象台に情報管制を敷いたからだと続き、敗戦までの、3年8か月空白の時代があった。そのため昭和17年8月山口県の周防灘台風が直撃したが、死者行方不明が800人を超えたというのに、「警報不徹底による被害」との分析が中央気象台の文書に残っているというだけである。消えたと言えば広島県竹原市の沖合にある、大久野島が戦時中に毒ガスを製造していたために、地図から消えていたし、敗戦間際頃の国鉄呉線の呉を中心に上下10キロくらいの沿線を走る列車の海側の窓は全部板で覆われ見えなくしてあったの思い出す。当時の軍部は、否応なしに自分勝手なことを国民に押し付けてはばからなかった。
今日は午前中は、老人大学の教養講座、小早川隆景と三原城について、三原市の学芸員より聞く。こんな講座は、えてして言葉がはっきりしないものだが、マイクがよかったのか、講師のマイク扱いが上手だったのか、最後まで退屈しなかった。
家に帰って見ると、妻がGGから帰って、立ち暗みをしたと言ってよこになっていた。軽い熱中症のようであったが、買い置きのガリガリ君を食べたら元気になったので、大笑い。
夕食後のウオーキングは90分。夕立があったせいか、川土手は涼しく気持ちよかった。