妻病んでやっと叶えたダイヤ婚
昭和34年4月10日二人は結婚した。あれから60年、今日ダイヤ婚を迎えた。1級下の彼女の卒業を待って、私26歳、彼女20歳で式を挙げた。貧乏だった2人は、式場は国語の教師であった神主さんに頼んで、酒1升持って行って式を挙げてもらった。勿論、仲人など気の利いたものは無く、私の親代わりは...【続きを読む】
初鳴きの雲雀に佳句をせかされる
よほど佳句に飢えていたのだろうか、こんな句があった。家の裏の法面を草刈りしていたら、雲雀の巣をひっかけてしまった。卵があったらしいが、草刈り機でひっかけたので、つぶれた卵の残骸があっただけで、雲雀はもう帰ってはこなかった。
2週間ほど前にスマホに替えたので、店舗併設の教室に行って見たが、向こうのマニ...【続きを読む】
仕舞い風呂もうひとくべを言いそびれ
30年も前には我が家も、槇で風呂を沸かしていた。句中の「ひとくべ」は、今でいう追い炊きの事。家内がしゅうとめの母に言いそびれて、寒い寒いと言って風呂から上がってきたのが、昨日のように思い出される。こうなると句の良しあしではなく、懐かしさの方が先に立って、楽しいものである。
GGは19.23.20.2...【続きを読む】
金竹小この煙突が邪魔になる
金竹小はもともと、此畜生と書くらしい。それをあえて金竹小と書い作った川柳が昔の句帳から見つけた。駄句ではあって面白い発見があるもので、いま、古い句帳を読み返している。
今日は県会議員の選挙。家内も行くと言うので、一緒に行く。上手く投票ができるかと心配であったが、前から支持していた人に入れたと、出た来...【続きを読む】
生きて欲し一つ残った乳を吸う
この句は私が60歳、妻が54歳の時の句である。家内は53歳の時、乳がんで左の乳房を切除したが、良くなって、退院した時の胸は、見るに堪えない残酷なものであった。今では乳房の全摘出はないようであるが、当時は全摘の技術も進んでいなかったせいか、傷跡は今でも見るに堪えない。それでも幸いなことに、30年経った...【続きを読む】
原爆に耐えた湯垢の南部鉄
この時の私が今も残っているようだ。被爆鉄瓶の中の湯垢がまだ残っていたのを見せてもらったことがある。原爆の、光も音もきのこ雲までライブで見たものにとっては、なんとしても核廃絶の側に立つ。
総理も副総理も忖度できないので、私が忖度をして、下関市と北九州市をつなぐ道路を作ることを決定したと、とんでもないこ...【続きを読む】
廃品を集めてみればみな漫画
随分前の句である。息子や娘が巣立った後、子供部屋をかたづけてみれば漫画本ばかり。あのころは私も若かった。今句帳を開いてみれば、懐かしい思い出をしみじみ思い出させてくれる。もう一番上の子は、55歳になる。
ほとんど毎日のように、昼には行く近所のお好み屋の、くんし蘭が、きれいに開いた。上手...【続きを読む】
お節よし大掃除よし除夜の鐘
現役の時には、朝礼の最後に、「足元よし。ヘルメットよし。ご安全に」で仕事を始めたものである。そんな癖が抜けず、冒頭のような575を作っていた。こんな拙い句の方が振り返って読んで盛ると懐かしいものである。
川柳奉行の句会場の近くに、三原城の舟入櫓後の石垣が残っている。そば...【続きを読む】
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