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こう猛暑がつづくと、八月六日を思い出す。その日は、芋畑になった、運動場の隅で朝礼をしていたら、ピカっと閃光。その後に、地響きのような大音響。みんながざわめいている時に西の山から上がった、きのこ雲。それが原子爆弾とわかったのは、だいぶ後の事の様に思う。それでも、あくる日は、新型爆弾とか、ガスタンクの破裂、さらにはピカドンなどと言って、みんなを不安させた。当時国民学校高等科の生徒は、大人に交じって防空壕を掘らされていた。標記の、峠三吉も原民喜の本も、昭和26、18歳のころ読んだ本である。 ウオーキングの途中、この暑さ、ネコモぐったり、道路に寝そべっていた。夏の花が少ない時期、なぜか黄色い花がよく目につく。

20時45分やっとわたしの書斎にも、涼しい風が吹き込んでくるようになった。昼間はクーラーのある部屋に逃げ込んで、読書。いまは、「病院坂の首括りの家」横溝正史で涼を取っている。

ウオーキングは70分。万歩計は7.614歩、

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三吉も民喜も読んだヒロシマ忌”にコメントをどうぞ

  1. 信ちゃん on 2017年7月30日 at 5:51 AM :

    山梨の信ちゃんです、昨年は甲府市代表団として「原爆記念式典」に参加いたしました。
    荘厳な時間を過ごさせて頂きました。 夜は「追悼」の お好み焼き⇔ハイボールでの「宴」を行いました。質問ですが、当時の「軍国少年」達は・・戦局全般が分かっていたのでしょうか? もう「ダメ」だと理解できたのでしょうか?それとも「神風」が吹いて戦局逆転と信じていたのでしょうか? 

  2. 野村 賢悟 on 2017年7月30日 at 9:42 PM :

    信ちゃんこんばんわ。いつもありがとうございます。

    質問ですがと真面目に切り出されると、困りますが、昭和14年に尋常高等小学校に入学。三年生で大東亜戦争勃発。国民学校に改編。高等科1年12歳で終戦。昭和23年のまた、学制改革高等科2年卒業の時6.3.3.4制にになり、いきなり中学3年になり、新制中学の第1回の卒業生となる。今の高等学校は、当時新制高校と言っていました。
    問題の、戦局全体が分かっていたかどうかについては、全然わかりませんでした。わからないと言うより何も知らされていませんでした。入ってくる情報は、欲しがりません勝つまではの様なニュースばかりで、日本が負けるなどと言うことは、玉音放送まで考えても見ませんでした。
    17歳で中卒のまま、紡績工場に入社。そこで初めて組織の1人になり、世の中の仕組みを勉強するようになり、21歳で定時制高校に行くようになり、今の私が出来たように思います。そのせいかどちらかと言えば、弱者にはやさしく、したい気持ちで、川柳も人生も全うしたいと思っています。

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