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久しぶりに小生ブログをご覧になる方は、19日付「台風の余波・・・能因川柳会90・・」からお読みくだされば 話が繋がります。よしなに。

2、「俳句の隆盛を演出」した高浜虚子の経歴
 1874年(明治7年)愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)に、旧松山藩士・池内(いけのうち)政忠の五男として生まれ、9歳の時、祖母の実家・高浜家を継ぐ。
 1888年(明治21年、14歳)伊予尋常中学(現・愛媛県立松山東高校)に入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。
 1891年(明治24年・17歳)、子規より「虚子」の号を授かる。「虚子(キョシ)」は本名の「清(キヨシ)」に由来している。
 1893年(明治26年・19歳)、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現京都大学総合人間学部)に進学。この当時、虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、同じ下宿で寝食を共にし、その下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。
 1894年(明治27年・20歳)、三高の学科改変により碧梧桐とともに仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入するも中退。上京して東京都台東区根岸の「子規庵」に転がり込む。この頃虚子は学業より放蕩の時代であった。なかでも「娘義太夫」に入れあげ、そのなかの「小土佐」に「恋した」(河東碧梧桐『寓居日記』)。この娘義太夫については自身の小説『俳諧師』でも思いがつづられている。
 1895年(明治28年・21歳)12月、自身の短命を悟った子規より「後継者」となることを要請されるも拒否する。(所謂「道灌山事件」)。
  *この件に関しては、別の項で詳細を記したい。・・・由宇呆
 1897年(明治30年、23歳)、元来碧梧桐の婚約者である大畠いと(糸子)と碧梧桐の入院中に親密になり結婚。
 1898年(明治31年・24歳)、満朝報に入社するも、母の病気のため松山滞在中に、長期欠勤を理由に除籍され生活に困窮し、子規の協力を得て、前年に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほととぎす』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく短歌、散文などを加えて「俳句文芸誌」として再出発。夏目漱石などからも寄稿をうける。
 1902年(明治35年・28歳)子規没。以降俳句の創作を辞め、小説の創作に没頭する。

今日はこの辺で止める。  由宇呆   拝



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