
高浜虚子の略歴など(3)
前項よりの続き。このブログへ久しぶりで立ち寄られた方は、9月19日付の分から ご覧頂ければ、話が続きます。 よろしく。
1898年(明治31年・24歳)、子規の肝入りで俳句文芸誌『ほととぎす』の経営を任される。俳句、短歌、散文、小説などを掲載。
1902年(明治35年・28歳)、子規没。虚子は俳句...【続きを読む】

高浜虚子の略歴など(2)
久しぶりに小生ブログをご覧になる方は、19日付「台風の余波・・・能因川柳会90・・」からお読みくだされば 話が繋がります。よしなに。
2、「俳句の隆盛を演出」した高浜虚子の経歴
1874年(明治7年)愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)に、旧松山藩士・池内(いけのうち)政忠の五男として生まれ、9...【続きを読む】

高浜虚子の略歴など(1)
前項に続き、「能因川柳会創立90周年大会」での記念講演「川柳(らしさ)とは何か」(演者・筑波大学人文社会系教授・石塚修先生)に関して。
1、俳句・俳壇に果たした虚子の役割(概論)
子規の没後、五七五調に囚われない「新傾向俳句」を唱えた河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)に対し、それまで「散文」に...【続きを読む】

俳句隆盛へ虚子の思惑・・・
前項の続き。(9月17日の能因会90周年大会・石塚修先生の講演)
講演の中で、「ホトトギス」の事務所が丸ビルの中にあった。という話が面白かったので、その経緯やら 結果やらを調べてみた。
「丸の内」の意味は、江戸城の中、つまり幾重にも巡らした堀(外堀)の内側 という意味で、今の大手町、丸の内、霞が関な...【続きを読む】

台風の余波で・・・能因川柳会90へ参加
日本を縦断した台風18号の余波で、ゴーヤの目隠しがぽっきり折れた。柱が3本折れたが、添え木をして結束バンドで結んだら、上手くいった。運が良ければ、未だ少しは生ってくれるかも。
17日(日)は新白河で、「能因川柳会」の創立90周年大会があった。事前投句はしていなかったが、思い立って上野から新幹線で、1...【続きを読む】