表記の題で、老大主催の教養講座があった。講師は、広島文教女子大学初等教育科 教授 村上典章氏。1・見方を変えれば、異なる面が見えてくる。(気が楽になる)2・老人とは賢い人である。(素晴らしい)3・社会の変化が激しいい今こそ、老人の知恵と判断力が必要である。4・働きながら一日一日を謳歌して。の4項目について1時間ほど話された。言われることはどれもありがたい話ではあるが、先生の話は概して心を打つものが無い。それはまじめすぎて、我々の生活から乖離しているためかもしれない。
一昨日戦争中の、ある1日について書いたのが公開ミスだったのでもう一度書いておく。
昭和20年八月のある日、我が家では、代用食用の麦を、挽き臼で挽いていた。その時ダダダダと機銃掃射の様な激しい音がしたかと思うと、ドカンドカンと何か爆発したような音がした。私はすぐに逃げたが、妹が階段を駆け上がっている時、母親が妹を階段から引きずり降ろして、自分が先に上がり「弘子ちゃん何しよるんね、早うきんさい」と叫んでいた。音の原因はグラマンが4機で沖を通っていた徴用船が重油を積んで運んでいた船を攻撃したものだった。船はすぐに、舳先を上にして垂直になり、船尾が海底にあたると、ゆっくりと倒れて沈んで行き、グラマンはすぐみえなくなった。
その晩、夕食のとき、母は正座をして、静かに、今日の事を手をついて妹に誤った。「焼け野のきぎす、夜の鶴、山焼けても、ヤマドリたたぬ。と言って、キジは卵を抱えていたら、山が火事になっても、卵を抱いたまま死ぬと言うのに、お母ちゃんはキジよりつまらん。」と言って泣き崩れた。私は丁度12歳。ものの善悪は多少はわかる年であったので、いたたまれなく、その場を離れた、妹と母親はしばらく泣き崩れていたようだ。南方の戦闘では、戦友の死体の肉を猿の肉だと言って食べた話は、小説「野火」の中にも出てくるし、戦争、つまり極限のの中ではうちの母親ではないが、母親の本能の様な物でも狂わせるようである。戦争が終わる少し前の、暑い夏の日出来事である。
ウオーキングは70分万歩計は11.832歩。
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今回は「重い話」を拝読しました。近くのお住まいならば・・お聞きしたい事が数点あります。 自信の生存が本能だと思いますが。「子の為」とか「家族の為」とか 飛躍して「国家の為」とかは 人間が「学習」した結果だと思います。「戦争は人間を狂わせる」平和な現在は「貧困が人間を狂わせる」と思っていますが・・・・・
信ちゃんこんばんわ。毎日暑いいですね。
いつも読んでいただいて、ありがとうございます。戦争に直接行ったわけではありませんが、終戦の時12歳で、海軍工廠や11空軍工廠の近くに住んでいたので、戦争に関する記憶は、たくさん残っています。折に触れた時々書いてみたいと思いますので、これからもよろしくお願いいたします。