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前項よりの続き。このブログへ久しぶりで立ち寄られた方は、9月19日付の分から ご覧頂ければ、話が続きます。 よろしく。

 1898年(明治31年・24歳)、子規の肝入りで俳句文芸誌『ほととぎす』の経営を任される。俳句、短歌、散文、小説などを掲載。
1902年(明治35年・28歳)、子規没。虚子は俳句の創作を辞め、小説の創作に没頭する。碧梧桐は、新聞『日本』の俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。
 1905年(明治38年)頃から、碧梧桐は従来の五七五調の形にとらわれない「新傾向俳句」に走り始め、1906年~1911年に掛けて「新傾向俳句」の宣伝のため、二度の全国俳句行脚を行う。(スポンサーは、浄土真宗の大谷句仏)
 1913年(大正2年・39歳)虚子は碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。
この時、新傾向俳句との対決の決意表明ともいえる句「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠んでいる。同年、国民新聞時代の部下であった嶋田青峰に、「ホトトギス」の編集一切を任せると表明。
 その後 碧梧桐は、新傾向からさらに進んだ自由律俳句の荻原井泉水と行動を共にしたり、昭和初期には風間直得の漢語にルビを振る「ルビ俳句」を試作したりするが支持を得られなかった。
 1923年(大正12年)、虚子は丸ビルに「ホトトギス」の事務所を構え、政財界のお歴々と縁が深くなった。(前述)
 1933年(昭和8年)、碧梧桐は還暦祝賀会で俳壇からの引退を表明。
 1937年(昭和12年)、碧梧桐は腸チフスを患い、敗血症を併発、2月1日、死去。享年65。虚子の悼句「たとふれば独楽のはぢける如くなり」は、嘗ての親友であり、激論を交わしたライバルへの想いであった。
 同年、虚子(63歳)芸術院会員。
 1940年(昭和15年・66歳)、日本俳句作家協会会長。
 1954年(昭和29年・80歳)、文化勲章受章。
 1959年(昭和34年・85歳)、4月8日 脳溢血で死去。
        同日付  勲一等瑞宝章

履歴詳細は、ウィキペディアを参照。その他、丸の内の逸話はネットから拝借した。

今年9月17日の「能因川柳会創立90周年記念大会」での講演「川柳(らしさ)とは何か」(筑波大学人文社会系教授・石塚修先生)にて興味をもった(「ホトトギス」の事務所が丸ビルにあった)という話題の結末がやっと終わった。長い間お付き合い頂いた皆さん、ありがとう御座いました。

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高浜虚子の略歴など(3)”にコメントをどうぞ

  1. 江畑 哲男 on 2017年9月26日 at 7:34 AM :

    いやぁ、素晴らしい。
    読ませていただいて、いろいろ考えさせられ、かつ参考になりました。
    有難うございました。

    • 山本 由宇呆 on 2017年9月26日 at 8:16 AM :

      哲男 先生
      忙しい時期に お付きあい頂き、有難う御座いました。
      虚子と碧梧桐は 文芸論では 激しく対立しましたが
      「ホトトギス」の運営などでは、全国に顔が効く碧梧桐の金策など
      協力し合っていたようです。
      また 子規と虚子の「連句論」でのやりとりも 面白く
      「道灌山事件」のいきさつなどと共に 別途 纏めてみたいと思っています。

      尚 この一連のブログのエピソードだけを纏めて「ぬかる道」に載せたいと
      考えています。面白がっているだけかもしれませんが。

      では、また。  由宇呆  拝   

  2. 佐藤 千四 on 2017年9月26日 at 8:36 AM :

    おはようございます。
    面白くありがたく拝読しました。結果的には碧梧桐あっての虚子であったわけですね。俳句史というか虚子伝というか浪曲調に引き込まれました。

    • 山本 由宇呆 on 2017年9月26日 at 3:30 PM :

      千四 さん
      長い間 拙文にお付き合い頂き、有難う御座いました。
      また 気が向いたら書きます。
      その時は 懲りずに お付き合い下さい。
      では、また。    由宇呆   拝  

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